東映「名物社長」の命令で投手から“俳優”に転身 俳優・八名信夫さん(89)が明かすプロ野球選手時代の秘話
執拗な暴力に耐えかね、明大野球部を脱走
「大学に入ってすぐ、六大学の新人戦があった。そこでオレも投げて優勝してしまったんだよ。あの頃の明大野球部には第一から第四まで合宿所があったんだけど、いきなり新人戦で活躍したものだから、レギュラークラスの上級生しか入寮できない第一合宿 所に入ることになった。天国にも上るような有頂天だったね。でも、それは天国ではなくて、地獄の一丁目の入口だったんだ(苦笑)」 当時、明大野球部を率いていたのは「御大」島岡吉郎である。監督から、そして上級生からの鉄拳制裁は日常茶飯事だった。特別待遇の1年生に対する上級生からの風当たりは並大抵のものではなかった。 「とにかく殴られた。それも1発や2発なんてものじゃなく、30発、40発だよ。口の中は切れて、次第に感覚がなくなる。食事のときには味噌汁が沁みて、満足に食べることができない。あまりにも壮絶にやられるものだから同級生たちが見かねて、“プロからも誘いが来ているのだから、ここから逃げろ。こんなところにいたら、本当に殺されるぞ!”と真剣に心配してくれたんだ」 そして、八名は合宿所を脱走する。後にホエールズで活躍する近藤和彦の手引きで、新宿二丁目の遊郭街にかくまわれることになった。もう野球部には、いや、大学には戻れない。八方ふさがりの窮地に立たされることとなった。 「合宿所から逃げ出したということは、またたく間にプロ野球関係者の間に知れ渡ってしまった。逃げて3日目には東映フライヤーズのエースだった米川泰夫さんの自宅に呼ばれて、東映とプロ契約を交わすことになったんだ。契約金は120万円。当時としても破格の条件だった」 高校時代にはすでに180センチを超える身長を誇っていた。長い手足を使ってサイドから投じられるストレートは、相手バッターにとっての脅威だった。しかし、本人は「変化球には自信はなかった」と振り返る。 「スライダーやシュートも投げたけど、スライダーは引っかかり気味であまり自信はなかったな。手足は長いけど、指は短かったのでフォークボールも投げられなかった。だから、こんな感じで落ちる球を投げていたんだ……」 編集者が持参したボールを手に取った。その握りは、現在で言うツーシームだった。