あと26時間の命と知った特攻隊長「人間その境遇になれば誰でもこんな心境に」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#65
ほのかな安心感の中に無限の勇気
石垣島事件で死刑執行される7人は、50代の井上司令と40代の榎本中尉。あとの5人は31歳の幕田大尉の下はいずれも20代の4人だった。副長の井上勝太郎大尉と、田口泰正少尉。成迫忠邦と藤中松雄は下士官だ。死刑執行の言い渡しの為に死刑囚の棟を連れ出される時も、一人ずつ部屋に入れられる言渡式を廊下で待つ時も、取り乱すことなく落ち着いていた。 <幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> よぼよぼに老いさらばいて自然消滅の死を私がせずに済む事を私は感謝する。こんな事を考えているとほのかな安心感の中に無限の勇気が湧き出るのを私は感ずる。勇気というより「生き甲斐」というのが適当なのかも知れない。実際こんな事を書いているとき、遠くに聞ゆる省電の警笛、かすかなる自動車のサイレンの音。それに強烈ではないが、何とも云えないほのかな安心と喜びを見出し得る。 〈写真:幕田稔大尉と同日処刑された藤中松雄〉
私はこの世界なのだ
「省電」というのは鉄道事業を鉄道省や運輸省が運営していた時代の呼び名で、国鉄は1949年6月発足なので、幕田大尉が遺書を書いている1950年4月時点では「国電」になっているが、スガモプリズンに3年在所し、国電になってから乗車した経験がない幕田にとっては、省電のほうがなじんだ名称だったのだろう。すでに敗戦から四年半が経過し、塀の外は戦後復興が進んでいた。房に聞こえて来る外の音に耳を傾けながら、幕田は鉛筆を走らせる。 <幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 私のきたない肉体は亡びてこの苦しく又楽しい娑婆は残るのだ。永遠なのだ。清い事も、きたない事も、喜びも、悲しみも、且つ歓楽の街さえも私の無限の安心の代償としてあるのだから少しもさびしいとは思わない。「私はこの世界なのだ」だから私の墓は今咲き盛っているであろう桜の花であり、春霞棚引く龍山であり、千歳山であり、天上に燦く星であり、春の朧の月であり、雪にうずもれた遠山であり、みる物聞く物私ならざるはなしと言う事が出来ます。 そればかりでなく私はそのまま母上であり、弟、○子、○子等々でもある事を信じて下さい。私は必して死滅してしまったのではないのです。この様に私は絶対不滅の所に少なくとも片足ぐらいは立っている確固たる自信があります。 〈写真:巣鴨版画集〉