全国に2か所だけ「名瀬測候所」130年ぶり移転 米軍統治下「教科書密航」舞台の1つに 鹿児島・奄美市
測候所が移転するのは、現在の庁舎からおよそ700メートル離れた国の合同庁舎。「津波避難ビル」の役割も担っています。 あいにくの空模様となった26日。新庁舎への移転の準備が着々と進められていました。 (Q.エレベーターはない?) 「ないです、次の場所にはあると聞いた」 気象の観測機器も引っ越しです。奄美市名瀬の気象データを日々観測してきた風向きや風速、気温や湿度をはかる機器を慎重に取り外し、それぞれ梱包していきます。 (福岡管区気象台業務課 金山智教課長補佐)「観測機器の移設はとても繊細な事業」 新庁舎に移された機器での観測は、27日から早速始まっています。 移転が進む名瀬測候所。歴史をひも解くと、戦後、アメリカ軍の統治下にあった奄美の教育に、「関わり」があったことも分かりました。 奄美市の奄美博物館に文献が残っていました。 (奄美市立奄美博物館 喜友名正弥学芸員)「こちらの2冊が教科書の密航について詳しく書かれた資料です」「日本と分断されていたので物資が入ってこず生活も苦しい時代」 「日本の教科書が届かず、先生自作のプリントや戦前の教科書を使った」 終戦後、アメリカ軍が奄美を統治下に置いた8年間。奄美の子どもたちに少しでも質の良い教育を受けさせたいと、島の教員たちが本土に密航し、本土の教科書を持ち込んでいました。 当時、命がけで教科書を運んだのが、名瀬中学校の教員だった深佐源三さんと、奄美小学校の教員だった森田忠光さん。 森田忠光さんの弟・勇さん(82)と会うことができました。 (教科書を運んだ忠光さんの弟 森田勇さん)「学校の再建のために一生懸命やっていた(Q.それで教科書を?)うん」 兄の忠光さんと20歳ほど年が離れていた勇さん。奄美の教育に尽力した忠光さんは特別な存在だったようです。 (教科書を運んだ忠光さんの弟 森田勇さん)「別格ですね家の中でも。昔の先輩たちがみんなで一生懸命、教科書集めや全てをやってくれた」