「中古は恥ずかしい」という意識が変わったコメ兵4代目の若手時代 危機下で着手した組織強化
ヨドバシカメラで修業
英国の大学で4年間学んだ後、ヨドバシカメラに就職します。販売員に専門知識がないと売れない仕事で勉強のしがいがあり、東京で働けるのも魅力でした。 家業に入ることを見据え「3年間限定で働きたい」と伝えていた石原さん。濃密な修業にしようと「みんなが逃げ出すところに入れてほしい」と希望します。 配属先は東京・新宿のカメラ売り場の販売員でした。「ものすごく忙しい場所で、1人で1日に10台、20台とカメラを売りました」 周りも石原さんがコメ兵の後継ぎであるのを前提に指導してくれました。「名古屋に帰ったら通用しない売り方をするな。ヨドバシの店員だからじゃなく、石原卓児を目がけて来てくれる接客をしなさい」と言われたそうです。 例えば、手ぶれを抑えるためにカメラを買いに来た高齢の来店客には、不要な機能がたくさん付いた最新機種ではなく、あえて三脚だけ勧める。そんな丁寧な接客を心がけました。 ヨドバシカメラの経験でリユース店の価値も発見しました。新品をメインに扱う企業とコメ兵では、同じ中古の品でも、新品を売る店の下取り価格よりコメ兵の買い取り価格の方が高かったからです。 「しかも新品をたくさん売らないと、リユース商品は出てきません。新品対中古という対立概念ではないと思ったのです。コメ兵が商品の循環者を増やせば、社会的価値の高い商売ができるはず。『新品がよくて中古は恥ずかしい』という意識が変わりました」
一般社員からのスタート
石原さんはヨドバシカメラに、1年8カ月で別れを告げます。1997年12月30日、父の秀郎さんががんで急逝したからです。 「手術前日までポリープの治療と聞いていたので驚きました。伯父(先代社長の石原司郎さん)には、私が入社した後のビジョンを伝えていたようですが、父から直接後継ぎに関する言葉を聞く機会はありませんでした」 コメ兵に入社後、石原さんはカメラ売り場担当の一般社員からスタートします。「父も伯父も、私に様々な売り場を経験させ、リユースの仕組みを覚えて社内人脈をつくり『社長の息子ではなく石原卓児として認められるように』と考えていたようです」 アパレルや時計売り場などでキャリアを積む間の2003年、コメ兵はジャスダックに上場し、本格的に首都圏へと進出します。石原さんも2005年に開店した東京・新宿店の店長を任されました。