夫の置き土産に感謝 福知山脱線で夫亡くした妻の想い
「どうすればええかわからへん」
「どうすればええかわからへん」そんな思いだけが頭の中をめぐる。事故に巻き込まれたと信じたくはなかったが、テレビで報じられていた「遺体安置所」のある体育館へ向かった。間違えであってほしいと思いながら。だが、なんの手がかりもつかめなかった。 それでも、ずっと体育館にいた。時はすぎゆくばかり、浩志さんからの連絡はない。そして、翌日の午前4時ごろ、佳代さんの携帯電話の着信音がなった。相手は浩志さんだった。「電話に出ると、たぶん『警察のものですが』と言ってたかな。そして『ご主人が亡くなられました』と言われました。体育館にいることを伝えたら、今から1時間半くらいしたらお名前を呼びますって言われて。その後、対面しました」 寝かせられた浩志さんは、冷たくなっていた。服はぬがされ、足にも大ケガを負っていたという。家に連れて帰ろうと体育館を出た時には、朝になっていた。その記憶は今も残っているという。 浩志さんの兄が駆けつけ、葬儀の話をするも、電車が止まっており葬儀場がなく、大阪府内の葬儀場をおさえるのがやっとだった。「電車が止まってるし、私たちと同じような状況の方もたくさんおられたから。もう混乱状態でした」 「夫が亡くなった」という感覚はずっとなかった。そんな覚悟もなかったし、昼間などは会社に行ってるという感覚もあったからだ。連日、浩志さんの友人やマスコミ関係者の応対をし気が張っている毎日。だが49日を終えたあたり。訪ねてくる人が少なくなり、そこで「亡くなった」と実感した。 押し寄せる寂しさ、悲しさ。だが、そんな佳代さんをずっと支えたのは淳子さんだった。「離れて暮らしていましたが、事故の時からずっと家に帰らず私のそばにいてくれました。母は肺気腫や膠原病などを患っていたんですが、一生懸命支えてくれたんです」
ふとしたきっかけで知った母の深い愛情
そんな淳子さんの愛を感じた出来事があった。それは、事故から数日たったある日、キッチンで料理をした際に包丁がないことに気づいた。どこを見ても見つからない。そんな佳代さんを見て淳子さんが「私が隠しました」と打ち明けた。 「母は、私が何をするかわからないと考えたから隠したらしいんです。そっと打ち明け、隠した場所から包丁を出してくれました。私はそこまでは思っていませんでしたが、あそこまで思ってくれるのは母しかいないなあと思いました。あの時、母がいてくれて本当に良かったと思いました」 そして、母とは同居することとなり、住まいも現在の宝塚市へ。だが、佳代さんは精神的にもまいっていた。ある日の夜中、夢の中で浩志さんから「迎えにきて」と言われたように思えたことがあった。「駅で震えて待っていると思って、『迎えにいかな』と私は一生懸命、泣きながら準備をしていた。母はそんな私を懸命に止めてくれました」 ちょっとでも落ち着こうと、淳子さんとともに浩志さんと旅行に行った思い出の地などへ旅をしたりした。そばでずっと支えてくれた淳子さん。だが、そんな母が耳のがんを患った。医者に相談するも、肺気腫なども患っており手術は不可能。「ストレスをかけたのかな」と悩んだが、告知しなかった。そして、最後は自宅で普通の生活を一緒に送ろうと決めた。仕事も休業したが、音楽の生徒さんらは「先生が帰ってくるのいつでも待ってるから」と理解してくれた。ホームドクターやケアマネジャーの支えもあり、母は安からに息を引き取った。75歳だった。 だが、一人っ子の佳代さんは、これで天涯孤独の身となった。「もう包丁を隠してくれる人もいない。私に生きる意味があるの?」絶望感に包まれ、自ら命を絶とうと思った日もあった。けど、できなかった。