ホシザキ、保守販売網でライバル圧倒 全国430拠点で飲食店支える
すし屋の冷蔵ケースやカウンター越しに見える業務用冷蔵庫に目を向けると、必ずと言っていいほど目に入る「HOSHIZAKI」の文字とペンギンのロゴ。一般消費者にとってあまりなじみはないが、飲食店にとっては欠かせない相棒とも言える存在。それがホシザキだ。 【関連画像】1962年には噴水式のジュース自動販売機を開発。映画にも登場するほどのヒット商品となった(写真=ホシザキ提供) ホシザキは愛知県豊明市に本社を構え、冷蔵や冷凍技術を軸に業務用厨房機器の生産や販売を手掛けている。国内市場では製氷機の6割、業務用冷蔵庫や食器洗浄機は4~5割、生ビールディスペンサーは7割もの圧倒的シェア(2022年、台数ベース)を握ると見られ、まさに飲食店を支える隠れた巨人だ。 行動制限で飲食店が軒並み苦しんだ新型コロナウイルス禍以降、業績も右肩上がり。24年12月期には売上高が4100億円、営業利益が440億円に達し、前期の過去最高益を更新する見込みだ。 ホシザキの源流は1947年に遡る。創業者の故坂本薫俊氏は三菱電機出身の機械技術者だ。戦後、愛知県に拠点を置く日本ミシン製造(現ブラザー工業)に入社。ミシン以外の電化製品を扱う電機部を立ち上げて部長を務めた後、47年に独立して星崎電機(現ホシザキ)を設立した。当時、国内に2台しかなかったという最新鋭の特殊な金属加工機械を使い、ミシンの部品製造から事業を起こした。 その技術力を生かし、薫俊氏は自社製品の展開も模索した。57年、星崎電機は国産初のジュース自動販売機を開発。オリエンタル中村百貨店(現名古屋栄三越)での催事で披露すると大盛況となり、たちまちヒット商品となった。 ただ、国内の自販機市場は未成熟だったため、自社製品としての将来性を測りかねた。そこで「米国ではやったものは10年遅れて日本でもはやる」といわれた当時、薫俊氏の子息で現会長の坂本精志氏はプロペラ機を乗り継ぎ、米国へ視察に飛んだ。 自販機の展示会を訪れた時にたまたま居合わせた米国人が、製氷機の特許を持つ開発者だった。「社会がぜいたくになればなるほど必要になるのは水と紙、そして氷だ」。彼は製氷機の将来性をそう説いた。 その言葉を胸に刻んだ精志氏は帰国後、製氷機開発に着手した。だが当時は氷屋が全盛期の時代。客からは「なぜ機械が必要なんだ」と一蹴された。製氷機として国産初の製品だったため、扱ってくれる代理店もほとんどない。仕方なく自ら地道に喫茶店やホテル、レストランにチラシを配り歩いた。 ただ、そうして顧客と直接対話を続けるうち、需要の種を見つける。バーなどでカクテル向けの溶けにくい角氷を大量に作りたいという声があったのだ。 そこで65年、大型化した全自動製氷機を発売。それが現在の主力製品の源流となった。精志氏は「顧客との対話が市場調査になった」と振り返る。 当時、星崎電機は自販機ブームの冷え込みや不況で業績が悪化し、「明日にも潰れるかもしれない」という窮地に陥っていた。そこから反転を託されたのが製氷機事業だったのだ。 70年の大阪万博では製氷機の大量受注を獲得。71年に米国発のハンバーガーチェーン「マクドナルド」が日本1号店を開業するなど外食産業が急成長する中、星崎電機もその追い風に乗った。 その成長を後押ししたのが、全国に張り巡らした保守販売網だ。製氷機発売から間もない66年に保守を手掛ける子会社を設立。やがて販売も担った。そうしたネットワークを全国へと広げていった。