負傷者の四肢をもぎ取って、その肉を食べていた…豊臣秀吉による「史上最悪の兵糧攻め」の凄惨な光景
豊臣秀吉とはどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「築城の才があるだけでなく、城攻めも得意だった。特に鳥取城の籠城戦は戦国史に残るすさまじい戦いだった」という――。(第1回) 【画像】月岡芳年画「高松城水攻築堤の図」 ※本稿は、河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。 ■歴史作家が感服する秀吉の根気強さ 秀吉は築城の才があるだけでなく、城攻めも得意とした。中国平定戦でも巧みな攻城戦で次々と敵を屈服させていった。なかでも「三木の干殺し」「鳥取城の渇え殺し」「備中高松城の水攻め」は、日本の戦史上、刮目に値する戦いだとされる。 秀吉は戦よりも調略(事前工作や外交戦)を重視した。敵地の民情や家臣団の人間関係などを把握したうえで、甘言をもって誘降し、あるいは内部分裂を誘って自滅させるのを得意とした。 天正5年、そうした調略によって秀吉は難なく播磨を平定したが、翌6年2月に三木城主の別所長治が毛利氏に応じて叛旗を翻すと、今度は10月に織田家重臣の摂津国有岡城主・荒木村重が反乱をおこした。結果、播磨国内の国衆もほとんど毛利方になってしまった。 秀吉は、背いた三木城の周囲に柵や塀を幾重にも構築して城方の動きを封じ、30以上ある別所氏の支城を各個撃破する根気強い戦術をとった。結果、三木城内は食糧が尽きて飢え死にする者も現れたので、城主の別所長治は、自分と弟、叔父の命と引き換えに城兵の助命を秀吉に求めた。 秀吉はそれを了承し籠城戦は終わりを告げたが、終戦は籠城開始から2年後の天正8年正月のことであった。通常なら焦燥感に駆られて力攻めにしてしかるべきだが、秀吉の根気強さには感心する。
■究極の心理戦術「鳥取城の渇え殺し」とは 秀吉の鳥取城攻め(鳥取城の渇え殺し)を『信長公記』や江戸中期に書かれた香川景継の『陰徳太平記』(史料的価値は低い)などを参考に詳述していこう。 鳥取城主の山名豊国は、織田氏と毛利氏とのはざまで去就を決めかねていたが、天正8年(1580)、秀吉が大軍で鳥取城下に迫り、「織田に臣従するなら因幡一国を安堵するが、逆らえば人質を全て殺す」と伝えてきた。 このため豊国は、家臣の反対を押し切って織田方に降ってしまった。そこで秀吉は包囲を解いて帰陣するが、『陰徳太平記』によると、それからしばらくして山名氏の重臣が豊国を説得して翻意させたという。 これを知った秀吉は、鳥取城下で人質を木に縛り付けて次々と殺害し、豊国の愛娘も磔にしようとしたのだ。驚いた豊国は、娘を救おうと城を脱して秀吉のもとへ駆け込んでしまったといわれる。一説には、豊国が秀吉に降伏しようとしたので、重臣たちが鳥取城から主君を追放したともいう。 いずれにせよ、山名の重臣たちは主君の豊国に追従せず、毛利方に臣従を誓い、鳥取城に城将の派遣を要請した。そこで毛利輝元は、重臣の吉川経家を遣わしたのである。 鳥取城の離反を知った秀吉はすぐに出陣せず、入念に準備を整えたうえ、天正9年6月になってから兵2万人を率いて出立した。峻険な山城である鳥取城を力攻めにするのは難しいと判断し、兵糧攻めを企てたのである。 ■欲に目がくらんで米を売り払った 兵糧攻めの基本は城の包囲を厳重にして糧道を完全に断つことだが、これに加えて秀吉は、城内の食糧を奪うこと、兵糧を早く消費させることにまんまと成功した。 出発に先立って秀吉は、若狭国の商船を雇い入れ、鳥取城のある因幡国へ遣わし、米などの穀物を時価の数倍で買い集めさせたのだ。若狭の商人を用いたのは、自分の仕業だと悟られないためだった。 このため、鳥取城周辺の農民は喜んで米穀を売り、鳥取城の兵までもが、欲に目が眩んで城米を売り払った。結果、戦う前から鳥取城の兵糧は払底していた。 さらに秀吉は、鳥取城下の領民たちに故意に危害や圧迫を加え、彼らが城へ避難するよう追い立てたのである。こうして、城内人口は4000に膨れ上がったが、うち半数は非戦闘員。彼らは戦の役に立たぬばかりか、兵と同量の飯を食うため、籠城戦が始まるとすぐに食糧が足りなくなった。 標高263メートルの久松山にある鳥取城は、四方が険しい地形になっており、北から西にかけて蒼海が広がっている。近く流れる大河(千代川)の岸辺(城から二十町離れた地点)には出城が置かれ、河口にも要害が築かれていた。この出城と要害は、安芸から水路で味方(毛利軍)を鳥取城に引き入れるためにつくられたものだった。