53歳で司法試験に合格したノンフィクション作家が明かす「7年に及ぶ受験勉強生活で私を最も奮い立たせた負の感情」
怒りに震えた日
「先生、先生!」 裁判官、私側の弁護士――、相手方弁護士は、原告である私以外に対しては、極めて礼儀正しく、まっとうに接していた。私だけが侮蔑あるいは無視の対象だった。そして、そうした場は常に、男たちの中に女ひとりの空間だった。だれも、何事も起こっていないかのようである。そう、彼ら自身は何も“踏まれて”いないから、気に留めないのである。 私は怒りに震えた。この男が弁護士でなければ、私の人生に関わることはまずなかっただろう。私と法廷内で接し、私に侮蔑した態度をとる機会もなかったはずだ。私とこの男との違いは何だ? 男と女、年齢差を除けば、同じ人間である。 私はこの男が、本来であれば高い倫理的行動が求められる「弁護士資格」を、気にくわない女を見下す道具に使っているのが許せなかった。その資格はどこから来た? 司法試験と二回試験(司法修習の最後に行われる試験)に受かっただけではないか。違いはそこだけだ。だったら、私も受かってやろうではないか。この憤怒が、私の強烈な原動力となったのは間違いない。 司法試験と聞くと、とんでもなく高い山に見える。実際、「もうできない、だめだ」といった心境に陥るときもあった。そんなときは、法曹になる夢や憧れというよりは、「あんな奴でも受かったんだから」と私を対等な人間扱いしなかった男の弁護士を、幾度となく心の中でよみがえらせた。 抵抗は生きる原動力になる。悔しさは起爆剤になる。満たされなさ、怒り、悔しさ――。思えば、私を合格まで導いたのは負の感情だった。しかし、負の力は強い。途方もなく。
受験と仕事、二重生活の始まり
司法試験の試験範囲は膨大だ。論文式試験は、憲法、行政法、民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法、さらには選択科目と計8科目もある。 どこから始めたらいいのだろう? 何の法的知識もなかった私は手始めに、法律初心者向けの入門書を全科目入手して、ざっと目を通した。次に予備校のメールマガジンに手あたり次第登録し、SNSにも匿名アカウントを作成した。 そして、司法試験合格者や受験生のブログなども見て、人気のありそうな参考書や基本書を片っ端から手に入れて、ひたすら読み始めた。しかし、読むだけでは頭に入らないし、何が試験に必要な知識なのかもわからない。そこで、予備校の基礎講座を受講することにした。 とにかく作らなければならないのは勉強時間だ。生計のための仕事もこれまで通り続けなければ、都内で一人暮らしは維持できない。そうなると、時間を捻出できるのは、趣味、交友関係、家事などである。勉強しない時間はひたすら体力回復に使った。人とも会えなくなり、どんどん人間関係が狭まっていった。 お金の使い方も変わった。司法試験の参考書や演習書類は、とにかく高い。しかも、図書館には置いていないし、法改正があるから最新版を買わなくてはならない。おのずと洋服や化粧品などはあまり買わなくなり、メイク自体が雑になった。 勉強する場所も試行錯誤が続いていた。長らく住んでいた賃貸マンションは立地条件も間取りもとても気に入っていたのが、大通り沿いに面しているため、何かと騒々しかった。このままでは勉強に集中できない……。私は意を決し、15年も暮らしたところから、裏通りに面した静かなマンションに引っ越した。 司法試験合格をめざしてからというもの、私の生活環境は変化していった。
平井 美帆(ノンフィクション作家)