「戦争はドラッグだ…」世界で賛否両論の大ヒット映画が描く「国民国家崩壊」のヤバすぎる真意
常態化する「闘争状態」
このように考えると、『シビル・ウォー』から、ジャーナリズム賛歌や、内戦のリアルな疑似体験などではない、別のメッセージを汲み取ることが可能になります。現実のアメリカ崩壊という色眼鏡を外してしまえば、国民国家崩壊の寓話としての側面が浮かび上がってきます。もはや国民国家という大きな物語は形骸化し、無数の小さな物語に分裂してそれぞれが正当性を主張しているのです。そこにおいて鍵になるのは、舞台装置としての「闘争状態」です。 自国民を同胞と思える国民国家という神話を信じることができなければ、ある者は特定集団のイデオロギー(人種主義や宗教的原理主義など)をその代替として過激化し、ある者はより個人主義的な栄光(業績を上げてスポットライトを浴びること)にのめり込むことになるというわけです。前者が民兵や自警団などを買って出る自称兵士たち、後者が戦場記者たちに当てはまります。要するに、国民国家がなくなっても、自己のアイデンティティを正当化する何らかの物語が必要だからです。 そして、そのアイデンティティの真実性を充填しているのが、戦争や戦場という修羅場なのです。非常時という時空が継続しなければ彼女、彼らはまた元の「浅薄で空虚なもの」「くだらないもの」へと引き戻されてしまいます。「決断とか大義とか」が辛うじて生きる糧となっている場合、「闘争状態」こそがその土壌であるからです(後半のリーの状態は、ヘッジズのいう戦争=ドラッグの末期症状といえます)。ガーランドが、戦場シーンの演出に当たって、元海軍特殊部隊のアドバイザーであるレイ・メンドーサに徹底したリアリズムを求めたのも頷けます(*注)。 サミーの発言(WFとフロリダ連合の仲違いの恐れ)を踏まえると、最後のオチは、決して内戦が終結したことを示す歴史的瞬間ではなさそうです。そう、おそらく「闘争状態」は常態化するのです。それは彼女、彼らの実存にとってはマストであり、それ自体がグロテスクな衝動に思えるかもしれません。けれども、コミュニティが衰退し、人々がバラバラのまま暮らす孤立化が進む21世紀において、これが自らを奮い立たせる上で有効なオプションの一つとして機能するのだとしたら?それを薄ら寒いものとして片付けられるほど安穏な世界に生きてはいないことに、わたしたちは改めて気付くのではないでしょうか。 (*注)レイ・メンドーサは、防衛関連のニュースサイトの取材で『シビル・ウォー アメリカ最後の日』における戦場シーンの演出について聞かれ、「 [アレックスと私は] 銃弾をどう見せたいか、爆発をどう見せたいか、死をどう見せたいか、といった会話をしました。『トランスフォーマー』を批判するわけではありませんが、『トランスフォーマー』は爆発や空中の巨大な火の玉、レーザー銃など、より映画っぽい映画です。美学的にどのようなアクションが欲しいか議論をする必要がありました。彼は「リアルに見えるもの」と言いました。手榴弾が爆発したとき、巨大な火の玉は出ません。ただ、燃え盛る爆発物が激しく爆発するだけです。それは瞬間的なものです。彼は「それが欲しい」と言いました。誰かが死ぬとき、大きな変化は起こりません。スイッチを押すと、電気が消えるようなものです。彼は「それが欲しい」と言いました。彼は本当にリアルにしたかったのです」と話した(How ‘Civil War’ brought its combat to life/2024年4月20日/TaskPurpose)。
真鍋 厚(評論家・著述家)