原体験は「高校生での闘病」。伊藤忠・岡藤CEOが浪人を経て東大、伊藤忠に入るまで
「少年よ大志を抱け」は余計なお世話
「悩んでいた時代、2歳年上の会社の先輩から言われたことがあった。 『岡藤、俺たち課長になんか絶対、なれへんぞ』 当時、僕らがいた課では課長の下に14~15人おったんです。課長を5年やるとすると、次に課長になるのは5歳か6歳の年下の人間です。課長になるには数年にひとり。なれない人間の方が多い。しかも、マーケットは決まっていた、各社の利益は固定された商売ですからね。紳士服地の商売はメーカーから割り当てられたものを取引先に売るだけ。爆発的に売れるなんてことはない。ある年に売れたら、その次の年は調整して買い控えますから。毎年、売れる量は決まっている。他の商社の扱い分を奪い取るか、新しいプランを考えて扱い量を大きくするしかない。だけど、その時は新しいプランは考えついていなかったから、絶対に課長にはなれんと思った。 実際は社長になったけれど、その直前まで、社長になるなんてことはまったく考えなかった。 よく新入社員で社長になりたいみたいなことを言う人がいます。僕は昔からそういう人はちょっとかなわんなと。そんなことを言って、ほんとに社長になった人は1000人にひとりいるんかな、と。 クラーク博士が『少年よ大志を抱け』と言ったけれど、ちょっと違うと思う。余計なお世話や。それよりも背伸びすれば届くような目標を常にクリアしていく。 それと、準備ですよ。日頃からいろいろな準備、予習をしておけば、ふとアイデアが浮かぶことがある。また、僕は自信のないことに対してはトップを走らないと決めています。二番手、三番手で準備をしながらいろいろなことを小出しにしていく方がいい」
どん底にも希望はある
岡藤が生まれ育ったのは大阪市の生野区、閑静な住宅地だったが、在日朝鮮人が少なくない学区もあった。また、狭い迷路のような路地を入ったところに家がある友人もなかにはいた。 父親は百貨店に惣菜などを納入する仕事をしていた。父親は現金が入ると気が大きくなり、酒を飲んだりして使ってしまう。岡藤は「給料取りになろう」と子ども心に思った。 そして、子どもの頃からいじめっ子、特に弱い者いじめをする人間が大嫌いだった。 「いじめられてる子がいたら助けに行った。『バカなことするな』といじめっ子を殴ったこともあった」 以来、ずっと強い者、上から目線の人間には反感を感じている。 高校時代に結核になった。勉強をしたくともできない。がりがりに痩せて骸骨みたいになった。自宅の寝床で天井を眺めながら寝ているしかなかった。しかも、父親が病死した。母親は文句も言わず、涙をこらえて、父親の代わりに働きに出た。 布団のなかで寝ていた岡藤は「先が見えなくて、これはもうダメか」と思うしかなかった。そんなある日、友達が一枚のメモをくれた。そこには電力の鬼と呼ばれた財界人、松永安左エ門の言葉に似た文句が書き連ねてあった。 「実業人が実業人として完成する為には、三つの段階を通らぬとダメだ。第一は長い闘病生活、第二は長い浪人生活、第三は長い投獄生活である。このうちの一つくらいは通らないと、実業人のはしくれにもならない」 自分も長く闘病している。元気にさえなればなんとかなるかもしれない。そうして、2年間の浪人生活の後、東京大学に入り、経済学部を卒業した。大学にいる間の生活費、学費はすべてアルバイトで賄った。 今、レジリエンスという言葉が通用している。自発的治癒力、要するにストレスに負けない反発力、どんな状況にあっても自分で道を切り開いていく力のことだ。岡藤が優れているのはまさしくこれだ。長い闘病と父親の死を経験しているから、災厄にあったとしても動じない。立ち向かおうとする。
「強いもんとケンカせえ」
前述のように伊藤忠に入り、大阪本社の繊維部門に配属され、営業に出たのは5年目だった。同期より4年も遅れた営業現場だった。 紳士服地の営業パーソンは主に 輸入問屋を回る。当時、船場には仲の悪い2社の輸入問屋があった。もともとは同じ会社だったが、お家騒動の時に分裂したという。
野地秩嘉