【日本古代史ミステリー】みんなが思う「大化の改新」は「大化の改新」ではなかった!?
■譲位したはずの皇極の統制下にあった孝徳政権 皇極4年(645)6月14日、皇極(こうぎょく)女帝の史上初の譲位により孝徳(こうとく)天皇の新政権が発足する。左大臣に阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)といった孝徳に后妃を出した有力豪族の長がその中枢を固めたが、なかでも後者(蘇我倉山田石川麻呂)は「乙巳(いっし)の変」という政変を起こして孝徳を王位に就けた最大の功労者であった。麻呂は蘇我氏のなかでも本家に次ぐ威勢があり、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿をみずからの手で葬り去ることでその地位に取って代わることに成功したのである。 新政権の拠点は飛鳥を離れて当時の国際玄関口である難波(なにわ)に遷ることになった。数年を費やして難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)が造営される。それはおりからの激動する朝鮮半島情勢に対応する意図もあったが、難波宮を取り巻く摂津・河内・和泉の一帯が孝徳天皇や蘇我倉麻呂を初めとする政変を起こした勢力の一大勢力圏だったからであった。孝徳の上位にあってその権力を制御する立場にあった皇極女帝は、難波ではなく隠然として飛鳥(推古天皇の王宮だった小墾田宮/おはりだのみや/か)に留まり続けたようである。 ■孝徳政権によって出された「改新之詔」の史実 孝徳政権が行った政治改革が「大化改新」であり、その改革の要綱を記したものが『日本書紀』大化2年(646)正月甲子朔(かっしさく/元旦)条に見える「改新之詔」である。その概要は以下のとおり。 第一条、部・屯倉(みやけ)制度の廃止。 第二条、京師(みさと)の設定、律令制的地方行政制度・交通制度の創設など。 第三条、戸籍・計帳の作成、班田収授法の制定。 第四条、旧税制の廃止、新税制の制定。 第一条の部・屯倉とは天皇・皇族に対する貢納・奉仕のシステムのことであり、その廃止が実施されていたとすれば「大化改新」はまさに未曾有の変革ということになる。この第一条と第四条はいずれも律令制とは直結しない内容であるが、文章に修飾が少ない。他方、第二条・第三条はともに律令制に直結する制度について述べているが、その文章は大宝令などによる後世の追記・潤飾が明白である。これらのことから「改新之詔」のうち第一条・第四条は孝徳政権によって当時実際に発布されたものであり、第二条・第三条は「改新之詔」全体を整えるために後に付加されたものであったと考えることができる。 ■大化改革と孝徳政権のゆくえ 孝徳政権は部と屯倉を廃止し、それに代わって新税制を施行するなど、難波宮を拠点にした改革は順調に進められていくかに見えた。しかし、改革の実施をめぐり孝徳と蘇我倉山田石川麻呂が対立を深める。大化5年(649)3月、孝徳によって謀反を糾弾され、追い詰められた蘇我倉麻呂は難波から飛鳥に逃げ、飛鳥の小墾田宮にあった皇極に助けをもとめる。 だが、皇極により冷淡にも見棄てられ、山田寺で自害を遂げた。麻呂という求心力を失い、孝徳政権は自壊の一途をたどることになる。 一貫して孝徳の上位にあった皇極が復活・復権を果たし、再び即位(重祚/ちょうそ)することになるのはこれより数年後のことであった。 監修・文/遠山美都男 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
歴史人編集部