柴犬のルーツに出会う旅(3完)“柴の祖犬”の郷里に広がる日本の原風景
かつて家にいた「賢い犬」の話
看板の先には水田が3段あり、その先に母屋と作業小屋が建っていた。その背後に小高い里山があり、家に向かう小道の脇には枝沢が流れている。今は空き家になっているが、「田んぼと仏壇、お墓があるので、時々来ては手入れしています」と、後日インタビューした信市さんの孫、下山博之さんは言った。今年56歳になる博之さんは、中学卒業までこの家に住んでいた。父親は、林業・炭焼きを生業とし、自給自足的な生活で一家を養っていたという。
「小さい頃は(生家での生活は)嫌でね。不便な古い一軒家で(山間にあるので)空が狭い。昔は現金収入が少なかったから、どこの家でも猟犬を飼っていて、ウサギやテンを売るために獲っていたと聞いています。自分たちで食べるのは、残った骨についた肉。骨ごと石の上で砕いて、団子汁にしていたと叔母がよく言っていました」。博之さんは、36歳の若さで亡くなった信市さんと面識はないが、信市さんの妻であるおばあさんから、かつて家に「賢い犬」がいたという話は聞いたことがあるという。それが『石』のことだったのかは今となっては分からない。
定期的に手入れをしているというだけあって、家の中も敷地も清潔に保たれ、今でも十分に住めそうな家だ。『石』がいた昭和の初めは茅葺(かやぶ)きだったようだが、その他はほとんど変わっていないという。ガラス越しに居間を覗かせてもらうと、親族の遺影が掲げられていた。その中に、軍服姿の信市さんの姿もあった。『石』は、二・二六事件があった1936(昭和11)年の5月に、地元・石見出身の東京の愛犬家、中村鶴吉さんに譲られ、柴の祖犬となるべく「山出し」されている。信市さんは、その数か月後に亡くなったらしい。「どうして亡くなったのかは知らんのです。聞いちゃいけんことのような気がして……」と博之さんは言う。
今も続く猟犬がいる暮らし
渓流が流れる山に抱かれた『石』の生家は、まさに“日本の原風景”の中にあった。だが、かつては林業で栄えた板井川地区も、今は5世帯ほどになってしまったという。昭和38年の豪雪で村が壊滅的な被害を受けた後に建てられた鉄筋コンクリートの集合住宅も、今やほとんど廃墟になっている。 その集合住宅の近くで、花壇の手入れをしていた男性がいたので声をかけてみると、二川地区の自治会長さんだった。石号の看板を立てた張本人というわけだ。「昭和の終わり頃に一時、石見犬を調べている人がおったが、(石が柴の祖犬という話は)最近まで全然知らんかった」と、潮(うしお)隆人さん(68)は言う。