愛子さまお誕生時の「上皇ご夫妻の歌」が愛情深すぎる…!知られざる胸の内を「歌」から辿る
被災地に寄り添う
贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に 平成31(2019)年 天皇 平成31年、平成の天皇皇后両陛下が出席される最後の歌会始に出されたこの一首には、陛下の「象徴」に対する考えが、まさに象徴的に表れている。メッセージ性の強い一首であるが、この一首が語る大切なメッセージは、ひと言で言えば「忘れない」ということであろう。 「贈られしひまはり」には若干の説明が要るだろうか。阪神・淡路大震災から十年後の平成17(2005)年、両陛下は震災十周年の追悼式典に出席された。そこで遺族から手渡されたのが、「はるかのひまわり」と呼ばれるひまわりの種であった。 この震災で犠牲となった当時小学六年生の加藤はるかさんの自宅跡地に、その夏、ひまわりが花をつけた。はるかさんが隣家のオウムに餌として与えていた種が自然に芽を出したようだ。 人々はそれを復興のシンボルにすべく、種を全国に配り、いつか「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったのである。両陛下は、その種を蒔【ま】き、花が咲くと、そこから種を採り、毎年皇居の庭で育ててこられたのだ。 以前にも書いたが、両陛下の被災地訪問は一度きりのものではない。年を経て、再び被災地を訪れ、その後の人々の生活を見舞われることが多い。被災者にとっては、当座の生活の確保がまず大切だが、一方で町を復興し、生活を立て直すには、長い時間と絶え間のない精神的疲労、苦痛が伴う。被災者が多く訴えることの一つに、時間の経過とともに、自分たちが忘れられてしまうことへの不安、悲しみがある。 時間を経て両陛下が再訪されることは、自分たちは決して忘れられてはいないという大きな安心につながる。他ならぬ両陛下から忘れられていないという喜びのほかに、その訪問がメディアを通じて、国民に知らされることで、多くの人たちと繋がっているという、それは実感でもあり、また安心感でもあろう。 被災地再訪の御製【ぎょせい】は数多くあるが、 六年【むつとせ】の難【かた】きに耐へて人々の築きたる街みどり豊けし (平成13年) 大いなる地震【なゐ】ゆりしより十年【ととせ】余【ま】り立ち直りし町に国体開く (平成18年) は、いずれも阪神・淡路大震災の被災地再訪時の御製である。 現代のように移り変わりの激しい時代、あらゆる出来事は一時話題になっても、賞味期限が過ぎたと判断されると、マスメディアの表面からはすぐに消えていってしまう。大きな災害や事件も〈時間の風化圧〉により、たちまち人々の記憶から消えてしまうことになりやすい。そんななかにあって、陛下は「忘れない」ことによって、いつまでも彼らに「寄り添う」という姿勢を一貫して大切にされてきたのである。 そして、この〈彼ら〉には、現在の被災者だけでなく、戦争の犠牲者、その遺族も含まれていよう。以前にも触れたことだが、平成24(2012)年の誕生日会見では、沖縄戦のことに触れ「地上戦であれだけ大勢の人々が亡くなったことはほかの地域ではないわけです。そのことなども、段々時がたつと忘れられていくということが心配されます」と述べられ、「これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、日本人全体で分かち合うということが大切ではないかと思っています」と続けられた。被災者へも戦争犠牲者、そしてその遺族へも、「忘れない」ことを通じて寄り添っていくという姿勢は、まさに天皇陛下が平成という時代の30年をかけて模索し、確立してこられた〈象徴〉というもののあり方そのものであったはずである。
永田 和宏(京都造形芸術大学客員教授)