『響け!ユーフォニアム3』はなぜ傑作になったのか “原作改変問題”を考える重要な一作に
『響け!ユーフォニアム3』は原作との向き合い方に重要な一石を投じた。 ご存じの方もいると思うが、主人公・黄前久美子のオーディションの結末について、京都アニメーションは原作から大きな変更を導入した。この変更を賞賛する人もいれば、受け入れられないと拒否反応を示す人もいる。 【写真】「私、合奏が好き」というコピーが書かれた黒江真由のビジュアル あの変更について、筆者はどう考えるかをまとめてみたいと思う。ただ、筆者の考えを述べるのみならず、筆者とは異なる考えの人々の気持ちもできる限り汲んでみたい。久美子が作中で「脱落者を出したくない。全員そろってこその北宇治だと思う」と言い、部員一人も取りこぼさないで全国を目指したように、この原稿も同じく改変賛成派も反対派もどちらも取りこぼさないことを目指そうと思う。 たとえ筆者の文章力が足りないせいでそれが叶わず、「死ぬほど悔しい」ことになるとしても、この作品について書く時は、少なくともその意識は持たないといけないと思うからだ。
原作を変えるということ
あらゆる創作に絶対の正解は存在しない。創作者はいつも誰にもわからない答えを探し続けている。オリジナルの作品を作る創作者ならなおさらだ。羅針盤のない航海のようなものではないかと思う。そのような苦労をかけて作られたものに対してリスペクトするのは当然だ。 しかし、原作ものを扱う場合、一応「解答」が存在している。原作通りにやれば、ある一定の形にはなることはわかっている。しかし、小説と映像は異なる表現媒体であり、よく言われることだがそのまま作ることは通常困難だ。小説なら粋な表現も映像の場合は陳腐になるものもあるし、その逆もまたしかりだ。ただ、指針としての模範解答が存在する状態で創作に取り掛かれるという点は、オリジナル作品にはないメリットだ。 原作というバトンを手にした別の誰かが、別の「模範解答」を生み出すことができる時もある。今回の『響け!ユーフォニアム3』は、そういうケースとなった。創作の正解は一つではない、そして、その2つ目の模範解答は、1つ目があるからこそ生まれるもの。原作なくしては生まれない。 その模索の作業を、映像の作り手と原作者が一緒にできれば、創作環境として最も良いと筆者は思う。今年、テレビドラマで問題になったケースは原作を改変したことが問題というより、そのような模索の作業環境を整えることができなかったことに問題がある。あの事件を「原作改変問題」と書く人が多いが、「改変」そのものより、「まともなコミュニケーションが成立させられなかった」ことに問題の本質があると思う。 『響け!ユーフォニアム』はすでに足掛け9年の長期シリーズとなっており、監督と脚本家、原作者の関係性が良好であったことも良かったのだろう、今回の原作からの大幅な変更は両者が納得した形で行われていると思われる。その協業の中で、異なる解があると知れるのは、文化として豊かなことだと筆者は思う。