名門ラグビー部をパワハラで解任された“しくじり監督”が、現場の指導者に伝えたいこと
むしろ、レギュラーとして試合に出た選手より、出られなかった選手の数のほうが多い。そして、OBのなかにも、レギュラーの地位を得られなかった元部員たちが数多くいる。にもかかわらず、かつて表舞台に立つことができなかったOBたちも、流経大柏高校ラグビー部のことを思い、卒部式に駆けつけてくれるのだ。 だから私は、OB会の席などで、こんなことをよくいっていた。 「このなかには、花園に出た部員と出なかった部員がいる。俺にとって、本当の意味でのメダリストは、花園に出なかった部員たちだ。君たちがいなかったら今の流経はない」 試合に出られるか出られないかにかかわらず、チームのために頑張っていたOBたちがいたから、流経大柏高校のラグビー部がある。だからこそOBを大切にしたい。少なくとも、私が監督としてここにいるあいだは、それを語り継ぐ必要があると思った。 そのために、卒業生にも在校生にも、OBとの試合をとおして、その心意気を受け継いでもらいたかったのだ。 ● 指導の「あり方」は正しいが 「やり方」が間違っていた 試合に出ることができなかった卒業生たちは、 「僕たちは『捨て石』になります。でも、ただの『捨て石』ではありません。次に活かしてもらえるような『捨て石』になります」 と、よく話してくれていた。
心が通じ合い、脈々と受け継がれてきた、確かなものがあった。 私の例を引き合いに出すまでもなく、スポーツ指導者はそれこそ四六時中、割けるだけの時間を割いて、選手のため、チームのために頑張っている。 にもかかわらず、パワハラを起こして訴えられたり、指導者が逮捕されるケースも最近では出てきていることが、非常に残念だ。 「本人のため、チームのために、ぜひとも勝たせてやりたい」 指導者は、そんな熱い思いをもって選手たちに向き合っている。その指導の「あり方」はけっして間違ってはいない。だが、指導の「やり方」が間違っていて、その結果、お互いが不幸になっているという事実は認めなければならない。 たとえば言葉のかけ方1つをとっても、指導者としては、その言葉が愛情から出たものであっても、選手がそれを愛情だと捉えてくれるかどうかはわからない。 「選手のために」という愛情から出た言葉が、選手の側から見たら威圧や強要に映ることも少なくないのだ。 そうした「ボタンのかけ違い」は、「伝わるだろう」、「わかってくれるだろう」という指導者自身の思い込みや勘違いから起きていることが多いと、いわざるを得ない。 私は、ラグビー指導の現場を離れたあと、数多くの尊敬してやまない人々との出会いや学びをとおして、「この悲しい現実を変えなければならない」と思うようになった。