これからの時代こそ、「野中理論」が必要になる
■世界唯一の、知の創造の理論 本書『世界標準の経営理論』第2部では、組織学習・イノベーションに関する主要理論の数々を解説してきた。改めて、図表1をご覧いただきたい。この図は組織学習の大きな循環構造(骨組み)を表しており、(1)「組織→経験」、(2)「経験→知」、(3)「知→組織」の、3つのサブプロセスからなる。本書の第11章から第13章にかけては、サブプロセス(1)にあたる「サーチ」「知の探索」を解説した。第14章では、サブプロセス(3)に当たる組織の記憶に関する理論として、「シェアード・メンタル・モデル」「トランザクティブ・メモリー・システム」を解説した。 今回はサブプロセスの最後として、(2)「経験→知」に焦点を当てる。人・組織は何らかの経験を通じて、新しい知を獲得する。そしてこれも本書の第12章で述べたように、このサブプロセス(2)の手段には、知の創造(knowledge creation、自ら知を生み出す)、知の移転(knowledge transfer、例えば、ライセンシング契約などで他社から学ぶ)、そして代理経験(vicarious learning、他社を見ることで学習する)の、3つがある。 このサブプロセス(2)の3つの知の獲得システムの中で、多くの方が関心を持つのは、「知の創造」だろう。組織はどうすれば新しい知を生み出せるのか。そのメカニズムは何か。これはイノベーション・創造性に悩む世界中の経営者・起業家・ビジネスパーソンの関心事のはずだ。しかしたいへん興味深いことに、筆者の理解では、認知心理学ディシプリンには、この疑問に明快に答えてくれる経営理論が無いのだ。 もちろん、それらしきものがないわけではない。例えば、第12・13章では、「知の探索」は創造性を高める、と筆者も述べた。確かにそれはそうなのだが、そもそも知の探索はサブプロセス(1)を表すもので、サブプロセス(2)を描くものではない。探索だけで、知の創造に直結するわけではない。知の探索はイノベーション・創造性に間違いなく重要だが、知の創造プロセスそのものを描くわけではない。 実際の知の創造とは「探索→創造」のような短絡的なものではなく、もっと深く、ダイナミックなもののはずだ。認知心理学ディシプリンにもサブプロセス(2)について様々な視点・理論は様々あるが、どれもが断片的で、知の創造プロセスを体系的に描き切った理論は一つもない。少なくとも筆者はそう理解している。 しかし、この世に一つだけ、知の創造プロセスを描き切った理論がある。それが、一橋大学名誉教授・野中郁次郎のSECIモデルだ※1 。筆者は、野中教授が日本人だから持ち上げるのではない。現時点の経営学において、SECIモデルほど知の創造を深く説明したモデルは存在しない。そればかりか、これから解き明かすように、SECIモデルはいまビジネスの世界で大きな課題となっているイノベーション、デザイン思考、そしてAIとの付き合い方にまで、多大な示唆を与える。これからの時代に、不可欠な理論なのだ。 そしてこのSECIモデルは、これまで解説してきた認知心理学を、ある意味で超越したところから始まる。SECIモデルは認知心理学だけでは収まりきらない。むしろ相性がいいのは、本書『世界標準の経営理論』第20章の最後のコラムで紹介する「マインドフルネス」の理論や、第21章で解説する「直感」、第23章で解説する「センスメイキング理論」かもしれない。時には哲学の視点すら、必要なのだ。ここまで認知心理学ベースをひたすら解説してきた第2部だが、あえて本章だけはそれを超えて、「世界の野中のSECIモデル」を可能な限りわかりやすく、徹底解説していこう。 ■情報と知識は同じではない 世界の経営学におけるSECIモデルのインパクトは大きい。野中が、ハーバード・ビジネススクール教授の竹内弘高と著した『知識創造企業』は、世界的ベストセラーになった。しかし経営学者により重視されるのは、野中が1994年に『オーガニゼーション・サイエンス』に発表した、”A Dynamic Theory of Organizational Knowledge Creation”(組織の知の創造に関する動態的理論)という論文である※2。グーグル・スカラーでの同論文の引用数は2万4000を超える。「イノベーション理論の核心」とまで筆者が考えるマーチの1991年OS論文※3を超える引用数なのだ。 余談だが、興味深いことにこの1990年代前半のOS誌からは、その後の組織学習・イノベーション研究に多大な影響を与える「偉大な論文」が、次々と発表されている。先のマーチと野中の論文(それぞれ1991年と1994年)がそうだし、他にもテキサス大学オースティン校のジョージ・フーバーが1991年に発表した組織学習の論文も研究者にはよく知られる※4。加えて、本書の章末コラムで解説する「ナレッジ・ベースト・ビュー」を初めて提示したのは、コロンビア大学のブルース・コグートとストックホルム・スクール・オブ・エコノミクスのウド・ザンダーが、1992年に同誌に発表した論文だ※5。こういった大ヒット論文が続々と登場したことで、OS誌は経営学のトップ学術誌に登りつめたのである。 さて、筆者は2019年春に野中教授と対談する機会に恵まれた。その時に伺ったのは、実は若かりし頃の野中教授はPh.D.(博士)を取得するために留学したカリフォルニア大学バークレー校で、当初は情報処理理論を学んでいたということだ。これは、まさに(古典的な)認知心理学のことである。ハーバート・サイモンを始祖とする認知心理学は、人の脳を情報処理システムととらえる。人は情報を脳にインプットして、それを脳内でコンピュータのように処理を行い、そこから情報をアウトプットすると考えるのだ。 よく考えると、本書の第2部ではこれまで「情報」(information)と「知識」(knowledge)をほぼ同義で使ってきた。なぜなら、ここまで紹介した認知心理学ディシプリンの理論では、両者の区別をほぼつけていないからだ。第2部のこれまでの章で「情報」と「知識」の言葉を入れ替えても、まったく問題なく読むことができる。しかし、ここで当時の野中が持った違和感こそが、SECIモデルの出発点となった。野中の問題意識は、「『知識』は『情報』とは違うのではないか」というものだった。そして、その時に出会ったのが、「人格的知識としての暗黙知」という視点だったのである。