これからの時代こそ、「野中理論」が必要になる
■人格的知識としての暗黙知 皆さんも「暗黙知」「形式知」という言葉は、聞いたことがあるだろう。ハンガリー出身の学者マイケル・ポランニーが1960年代に提示して以来の、知識を区別する視点だ※6。形式知とは、「言語化・記号化された知」のことだ。我々が話す「言葉」はすべて形式知だし、書物や文書で伝えられる言語も形式知である。数式や図表も形式知だ。プログラミング言語も形式知である。 それに対して暗黙知とは、「言語・文章・記号などでの表現が難しい、主観的・身体的な経験知」のことである。暗黙知は、おおまかに2種類ある。一つは、特定の経験の反復によって「個人の身体に体化」されたものだ。 例えばスポーツは、暗黙知のかたまりである。野球選手がバッティング技術を習得するには、指導者が「脇を締めて、腰をひねって」と形式知だけで伝えても、そのまま上達することはありえない。指導者の素振りを真似ながら、本人が何度も何度も素振りを繰り返し、指導者に手・腰を支えてもらいながらフォームを修正し、また何度も何度も素振りを繰り返さなければ、絶対に身につかない。これらはすべて身体に宿される、暗黙知である。アート分野もそうで、優れたバイオリニストになるには、何度も何度も同じ曲の反復練習が必要だ。 もう一つの暗黙知は、「個人そのものに体化される認知スキル」だ。例えば、直感・ひらめきである。本書『世界標準の経営理論』の第3部第21章でも意思決定での直感の重要性を解説するが、よく考えればそれは形式知化できるものではない。さらに言えば、直感には「素人の勘」と「玄人の勘」がある。何度も何度も修羅場をくぐってきた経営者がM&Aディールで「これはヤバイな」となる勘と、新入社員がそこで持つ勘が同じはずがない。一方で往々にして、その経営者も「なんでこのディールがヤバイと思うんですか」と聞かれても、答えられない。勘は形式知化が難しいからだ。 同様に「人の信念」なども、個人に体化された認知的な暗黙知であることが多い。筆者がよく経験するのは、長い間会社を引っ張って来たカリスマ経営者のビジョンや経営上の信念が、なかなか後継者たちに伝わらないケースだ。例えば、様々な会議などで、そういった部下の発言を聞いた経営者が「う~ん、それはなんか違う…」とまでは言えるが、その人も何がどう違うかを説明できない。それは、経営者の信条や経験知が個人に体化されすぎてしまっているので、形式知化が難しいからだ。 こうしてみると、いかに我々一人ひとりが豊かで深い暗黙知を持っているか、いかにこの社会が暗黙知で満ちているかが、わかるだろう。そして、ここまでくれば「知識と情報の違い」もおわかりになるはずだ。 図表1は、それを筆者なりにイメージ化したものだ。図にあるように、我々一人ひとりは、自分の中に体化された、言語化されていない暗黙知をまるで海面下の氷山のように、豊かに持っている。しかしその大部分は形式知化されておらず、海面に沈んでいて見えない。ごく一部の形式知化された部分だけが、海上に出て「氷山の一角」として、この世に顕在化するのである。そして、サイモン以降の認知心理学の多くは、この氷山の一角の形式知(=情報)だけのやり取りを扱ってきた、ということなのだ。 一方、野中の視点は異なる。第1に、人は暗黙知の方が豊かであり、それを取り込まない知識創造はありえない。第2に、野中も我々も関心があるのは、「組織がどのように知を生み出すか」である。個人の知に注目したポランニーとの違いだ。組織は一人ではつくれない。最少でも2人必要だ。だとすれば、図表の2つの氷山が海上も海面下も含めた全体でそのまま衝突するように、形式知も暗黙知も含めた、2人の「人格」がそのまま全体でぶつかり、時に融合しなければならないのだ。これが「全人格としての暗黙知」ということであり、SECIモデルの根底にある考えだ。 【動画で見る入山章栄の『世界標準の経営理論』】 組織の知識創造理論(SECIモデル) センスメイキング理論 知の探索・知の深化の理論 ※1 SECIモデルは、「セキ」モデルと読む。 ※2 Nonaka,I. 1994. “A Dynamic Theory of Organizational Knowledge Creation,” Organization Science, Vol. 5, pp.14-37. ※3 March,J. G. 1991. “Exploration and Exploitation in Organizational Learning,” Organization Science, Vol. 2, pp.71-87 ※4 Huber,G. P. 1991. “Organizational Learning: The Contributing Processes and The Literatures,” Organization Science, Vol. 2, pp.88-115. 同論文は新しい理論を提示しているものではないので、本書では深く取り上げない。同論文については、第12章の脚注でも紹介している。 ※5 Kogut,B. & Zander, U. 1992. “Knowledge of the Firm, Combinative Capabilities, and the Replication of Technology,” Organization Science, Vol. 3, pp.383-397. ※6 Polanyi,M. 1966.The Tacit Dimension, Routledge & Kegan Paul.(邦訳『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫、2003年)
入山 章栄