【平成の名力士列伝:琴奨菊】大胸筋断裂の大ケガを境に相撲を一新、3横綱撃破で初優勝を遂げた苦労人大関
連載・平成の名力士列伝26:琴奨菊 平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。 そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、大関昇進後の大ケガを境に新たな型を模索して初優勝を遂げた琴奨菊を紹介する。 〉〉〉過去の連載記事一覧 【大関昇進も大胸筋のケガで苦境に】 左を差し、右は抱えながらの大きな体を生かした"がぶり寄り"は、琴奨菊最大の武器であり、トレードマークでもあった。 大関を通算32場所務め、賜杯も抱いた琴奨菊の相撲は、子供のころからの英才教育がその礎にあった。相撲好きだった祖父・一男さんの勧めで小3のときに初めて廻しを締めると、祖父が自宅に作った土俵で毎日、汗を流した。小4からはより強い稽古相手を求め、自宅のある福岡県柳川市内から車で1時間をかけ、同県久留米市の道場に週3回通うようになり、メキメキと力をつけていく。 小学校を卒業すると親元を離れ、高知県須崎市の明徳義塾中へ"相撲留学"し、中3の時には中学横綱にも輝いた。明徳義塾高時代も個人タイトル7冠を獲得。強豪大学からの誘いもあったが、小学生のころから声を掛けてもらっていた佐渡ヶ嶽部屋の門を叩いた。 平成14(2002)年1月場所、初土俵を踏むと平成16(2004)年7月場所、二十歳で新十両に昇進。十両は3場所で通過し、平成17(2005)年1月場所で新入幕に昇進した。 平成19(2007)年3月場所、新三役となる関脇に昇進以降は、常に平幕上位から三役の番付を維持。巡業では同世代の豊ノ島、稀勢の里、安馬(日馬富士)らと猛稽古に励み、切磋琢磨しながら出世を争った。 平成23(2011)年11月場所で大関に昇進すると、初賜盃や綱取りも期待されたが、大関として3度目のご当所となった平成25(2013)年11月場所2日目、松鳳山を押し出した際に右の大胸筋を断裂する重傷を負った。勝負後は右腕を胸につけたまま動かすことができず、勝ち名乗りを受けるときも苦悶の表情を浮かべながら、左手で懸賞を受け取った。支度部屋では無言を貫き、タオルで押さえた目頭からは悔し涙が零れ落ちた。 得意のがぶり寄りは左四つに組み止め、右で抱え込んで相手の動きを完全にブロックすることで、自身の体圧がまともにかかり威力を発揮してきた。だが、右大胸筋のケガはよって右で抱え込む力が不十分となり、相手にかかる圧力も激減。琴奨菊にとっては致命傷と言えた。 「ケガをしてからは(右で)絞めつける力が弱くなってきて力が伝わらなくなった」 翌26年1月場所は9勝を挙げ、カド番を脱出したが、そのうちの2番が不戦勝。相撲は明らかに精彩を欠き、続く3月場所も8勝どまり。5月場所は5勝10敗と大きく負け越し、年齢も30歳になっていた大関は「もう、ダメなのかな」と気持ちも弱気になっていた。