近年、一般公開が進んでいる「戦時中に飛び交っていた電文」が明らかにする「戦争の裏側」
源田司令の猛抗議
さらに1月21日にも人事局長に至急電で、 〈志賀18日付転勤発令せられたるも同人は元飛行実験部において紫電関係を担当しありたる関係もあり、現在当部隊各飛行隊の搭乗員指導には経歴実力とも必要欠くべからざる人物にして、殊に紫電関係の故障続出の現状において同人の転出は当隊として忍びざるものあり。一旦発令ありたるものに対しとかくの要望はまことに相すまざるところなれども、当航空隊の実情および特殊任務御諒察の上、飛行長として留保のことに取り計らいを得たく(後略)〉 と、かなり強い表現で人事局に翻意を促している。 そして源田司令のゴリ押しに人事局が折れて、1月24日に発表された辞令公報で、18日にさかのぼって志賀少佐を三四三空飛行長とし、志賀が行くはずだった谷田部空に下川少佐を転勤させるというドタバタ劇となったのだ。
下川少佐の行方
三四三空戦闘三〇一飛行隊の集合写真に下川少佐と志賀少佐が同時に写っているということは、1月24日から数日のあいだに、下川少佐の転出記念に撮影されたとみてよいのではないだろうか。主要幹部や搭乗員が転出するさいに集合写真を撮るのは、海軍航空隊のならわしだったからである。 かくして志賀少佐は三四三空飛行長に返り咲いた。せっかく着任したのにすぐに出されてしまった下川少佐が気の毒にも思えるが、下川少佐という人も、ひとかどの人物だったようだ。 終戦直後、徹底抗戦を叫んでクーデターを起こした厚木の第三〇二海軍航空隊(終戦のご聖断もあわや水の泡!?日本海軍最強部隊叛乱事件の真相)から抗戦を呼びかける使者2名が谷田部空に飛来した際、その搭乗員が予備学生出身の予備士官と見るや、部隊の大学、専門学校(旧制)出身の予備士官たちに、「学生らしく徹底的に議論せよ」とディスカッションさせたのだという。
戦後混乱期の壮絶な論戦
当時、その場に居合わせた隊員たちが私に語ったところによると、厚木からの使者のうち1名は中央大学法学部から海軍に入った後藤喜八郎中尉だった。後藤が抗戦の根拠として、 「終戦を受け入れれば女は全員凌辱され、男は去勢されて強制労働させられるだろう」 というのを、高等師範学校英語科卒で米国通の木名瀬信也中尉が、 「そんなことはあり得ない。アメリカは国際法に則って占領統治するはずだ。だいたい、昨日まで『一億玉砕』と言って死ぬ覚悟でいたのに、キンタマを抜かれると聞いた途端に震え上がるのはみっともなくないか」 などと、完膚なきまでに論破した。下川少佐はそれを見て、 「議論はそこまで! 谷田部空は抗戦に与しない。帰れ!」 と厚木の使者を追い返した。自分の部下たちは抗戦の呼びかけに動じることはない、と信じたのだろう。下川少佐は予備士官の多い谷田部空の飛行長が向いていたのかもしれない。 「あのときの木名瀬はカッコよかったよ」 と、戦後も長いあいだ、谷田部空の戦友会では語り草になっていた。 ――徹底抗戦を叫んで論破された厚木の後藤中尉は戦後、一転して社会党に入り、二代目武蔵野市長となる。後藤を論破した木名瀬中尉(戦後大尉になる)は戦後、女子大の英語教授となり、日本と旧敵国だったニュージーランドとの友好親善に尽くした。 次に、昭和20年、戦争末期のフィリピン戦線からの電報を見てみよう。