近年、一般公開が進んでいる「戦時中に飛び交っていた電文」が明らかにする「戦争の裏側」
戦争末期の混乱を映し出す電報
1月6日、米海軍の先遣隊がルソン島西部のリンガエン湾に侵入、艦砲射撃を開始、9日に陸上部隊が上陸を始め、ルソン島の地上戦が始まった。日本海軍は、飛行機さえあれば戦力になる搭乗員を台湾に脱出させ、クラーク地区に残る整備員や基地員は陸戦隊となって、北から第十一から第十六戦区と名づけた6つの複郭陣地(幾重にも構築した陣地)に立てこもり、米軍に抵抗するはずだった。 だが、第十一戦区の指揮官・玉井浅一中佐はなぜか台湾に転出し、第十二戦区の指揮官であるはずだった「某隊司令」もフィリピンを脱出、複郭陣地は4つになってしまったという。 2月8日、現地部隊から台湾の第一航空艦隊参謀長に宛てた電報によると、「某隊司令」は、クラーク防禦部隊指揮官(第二十六航空戦隊司令官・杉本丑衛少将)の知らぬ間に、飛行長を連れて台湾に転進してしまった。そのため、最重要拠点3000人の将兵を指揮する適任者がいなくなり、 〈隊員は一時士気消沈之が回復に相当日時を要したり〉 とある。
見捨てられた指揮官の悲痛な叫び
また、別の飛行長も、艦隊命令のないまま脱出した。杉本少将は、 〈航空戦実施の見地より航空関係者多数転出せしむることに関しては全然同意見なるも、重要職員の移動は艦隊または最高指揮官の命令によるべき〉 と訴えている。確かに、指揮官の知らぬ間に脱出されたのでは作戦の立てようがない。ここに書かれている「某隊司令」は八木勝利中佐、飛行長は相生高秀少佐。「別の飛行長」は壹岐春記少佐と電文紙に後から書き加えられている。 また、「第二航空艦隊の某軍医」は、部隊解散の噂を聞くや許可なく姿を消し、ルソン島北部のツゲガラオに向かったが、消息不明になった。そのため部下の衛生兵5人も患者70人を放棄して逃亡した、という報告も記されている。ツゲガラオには台湾へ脱出する搭乗員を運ぶ飛行機が来るから、あわよくば同乗しようとしたのかも知れないが、「消息不明」ということは途中で現地人ゲリラに襲われ、落命したものだろう。 搭乗員を脱出させる輸送機の機長だった大竹典夫・元中尉が私に語ったところによると、敵戦闘機を避けて深夜、ツゲガラオの飛行場に着陸すると、搭乗員を乗せて離陸するまでの間、こっそり紛れ込んで乗ろうとする士官、トランクいっぱいの札束を見せて「乗せてくれ」と懇願する士官もいたという。誰しも生きて帰りたいのは当然だけれども、大勢の部下を置き去りにして逃げようとした士官のふるまいは見苦しいと言われても仕方がない。 内地への転勤が発令されたのに、フィリピンから出られなかった人もいる。