近年、一般公開が進んでいる「戦時中に飛び交っていた電文」が明らかにする「戦争の裏側」
最期まで戦い続けた部隊の訴え
第二十六航空戦隊参謀の吉岡忠一中佐は、1月25日付で横須賀鎮守府附に発令されたが、1月29日、現地部隊から人事部長宛てに打たれた電報には、 〈「クラーク」にはすでに敵地上部隊侵入一月二十四日より輸送交通不能所在部隊は復郭陣地に籠り戦闘準備中警戒のため、人員抽出ごときは現在むしろ慮外のことなり〉 として、 〈出来得れば即刻再び第二六航空戦隊参謀に発令方取り計らいを得たく〉 と記されている。 吉岡中佐はそのままフィリピンに残り、地獄の戦場で終戦まで戦うことになる。
脱走、殺害、処刑...フィリピン戦の惨劇
極限の戦場で、絶望して脱走を図ったり、上官を殺害する者も出た。2月7日付、第二十六航空戦隊司令官(杉本丑衛少将)から海軍省人事部長に宛てた電報では、 〈一AF(第一航空艦隊)司令部附呉一補水一五〇九〇上等水兵角渡登、十二月一日及一月二十七日再度に亘り逃亡 爾後も監視員二名を要する状況なるを以て敵前逃亡の科により一月三十一日銃殺せり〉 と、逃亡兵を銃殺した報告がなされている。「呉一補水」というのは呉鎮守府の第一補充兵を意味する。第一補充兵は徴兵検査に合格しながらその年の定員超過のため現役兵として入営、入団しなかった者が人員補充のために召集されたものだ。脱走したところで逃げ場のない戦場で二度も脱走を図り、軍法会議も開かずに銃殺された角渡上水の心中はいかばかりだっただろう。 フィリピンではないが、インドネシアのハルマヘラ島からは、2月11日、3人による上官殺害ともう1件の殺人事件があり、臨時軍法会議を置くよう要請する電報も残っている。
一万五千人の「死」の記録
ルソン島で陸戦に従事した海軍部隊は、慣れない陸戦で、戦車を前面に立てた米軍の圧倒的な火力を前に絶望的な戦いを続けた。複郭陣地は北から十三戦区、十四戦区、十五戦区の順に制圧され、クラーク防禦部隊指揮官の杉本丑衛少将は4月下旬、防禦部隊の編成を解くとの命令を発した。残る部隊はそれぞれの指揮官のもと、ピナツボ山の山中に隠れ、自活しながらゲリラ戦を続けよ、というのである。 だが、米軍の火力から逃れても、山中での自活は、飢餓と風土病との苦しい戦いだった。 数少ない生還者の話によると、杉本少将は6月12日、「俺の肉を食って生き延びよ」と部下に言い残して自決した。また、第三四一海軍航空隊司令舟木忠夫中佐は、極限状態で何かのことで部下の恨みを買ったらしく、マンゴーの実をとろうと木に登ったところを従兵に火をつけられ、燃える草原の上に落ちて非業の死を遂げたと伝えられる。 ただ一人、第十六戦区を率いた佐多直大大佐だけは、部下を掌握したままクラークを望むピナツボ山西南地区に潜伏、山中のわずかな平地を耕してイモ畑をつくり、最後まで無線機を破却せず、ゲリラ戦を続けた。終戦後、隊伍を整えて米軍に投降、昭和20年9月17日、武装解除を受けた。 クラーク防衛海軍部隊15400人のうち、生きて終戦を迎えたのは450人に過ぎない。そのほとんどが、佐多大佐の率いる第十六戦区隊の将兵だったという。 大戦末期の電報には、ほかにも沖縄戦、ドイツ降伏、原子爆弾の情報やソ連の参戦など興味深いものが多くあるが、それらについては稿を改めて紹介したい。戦後79年、まだまだ解き明かせることはありそうだ。
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)