元テレ朝アナがプラモデルのタミヤに 松井康真さん 定年後は「毎日やることだらけ」 100歳時代の歩き方 私の後半戦
東日本大震災のときには福島第1原発1号機の原子炉建屋の図面をネット上で見つけ、正確な模型を2週間以上かけて自宅でゼロから作り、何度も番組で使われました。北朝鮮の万景峰号や鬼怒川堤防決壊の災害ジオラマなども作り、番組に登場しました。
《50代になると定年後を考えるようになる》
大学卒業時は故郷の富山で就職するつもりで、親も期待していました。しかし、度胸試しで受けた最初のキー局のテレビ朝日で内定を受け、母親に電話で伝えたら、「あんた、帰ってこんがけ(帰ってこないの?)」と落胆していました。定年後は大好きな富山に戻ろうと思っていました。
《タミヤからも声がかかる》
田宮俊作会長から「定年後はウチを手伝って」と言われていました。当然、社交辞令と思っていましたがホントになりまして…。直近のミッションは本社内にあるタミヤ歴史館というショールームのリニューアルです。現在、タミヤには歴史をまとめる専門部署がない。私はタミヤマニアとして創業時からの歴史をずっと調べていて、タミヤの公式ガイドブックを書いたこともあるんです。
《再雇用の話もあった》
テレビ朝日では特別な経験を山のようにさせていただきました。一方でタミヤなどの特定の民間企業の応援など、報道局員の立場ではできないこともあり、再雇用の道は選びませんでした。今後は自分のやりたいことで、なおかつ他人のためになることをしたいんです。
《やりたいことは山積みだ》
まずは富山県南砺市の活性化です。一度足を運んでもらえればファンになる要素が満載なのに知名度がまだまだ。私の役割はまず情報発信です。さらにアナウンサーの仕事。私は最後の12年間は主に災害担当の報道記者でした。やりがいがありましたが、やはりアナウンサーの仕事も好きなんです。そしてタミヤでの仕事。プラモデルを通して、「ものづくり日本」の再構築をお手伝いしたいです。
■まつい・やすまさ 昭和38年、富山県生まれ。東京工業大(現東京科学大)卒業後、61年、テレビ朝日に入社。アナウンサー、報道記者として、ニュース番組やスポーツ実況などで活躍。令和5年に定年退職、6年、タミヤ模型史研究顧問に就任。富山県南砺市のアンバサダーも務める。