無名の青年は水俣病を歴史に刻む使命を負った。写真家桑原史成さんと水俣との軌跡
1962年に開いた桑原さんのデビューとなる個展で、少女の写真は反響を呼んだ。このときの写真が桑原さんの知らぬ間に「訴訟派」によって水俣病のシンボルの一つとされた。だが、少女の父親は対立する「一任派」の代表だった。 「友達じゃなか。帰りなさい」。1970年、少女の自宅を訪ねた桑原さんに、父親は怒りをぶつけた。 「デモで写真が掲げられているのを、家族は苦々しく見てたって言うんですよ。おわびしたんですけどね。つらい思いをしました。寂しかったですね」 少女は1974年、23歳で亡くなった。 ▽写真を通じ、後世に伝えたいことは 水俣病を撮影し始めてから64年目の今年5月1日。慰霊式で桑原さんは報道席から伊藤信太郎環境相(当時)の姿を捉えた。その直後、被害者団体と環境相との懇談の場で、被害者側の発言中に環境省側がマイクを切る問題が発生。桑原さんは取材を受けていたため、その場に居合わせなかった。
「(発言遮断は)官僚的な動きで、冷たいな、と思いました。環境省は水俣病があったから生まれたんですけどね」 後世の人が桑原さんの水俣病の写真を見たときに何を感じてほしいか。 「それは難しいですね、どう思ってくださいというのは強要しません。ある時期にこういうことがあったんだということですから、僕に提示できるのは。どう受け止めてほしいというのは、おこがましくて発言しません」 ▽20万カットの保存や活用を求めて 桑原さんをはじめ、水俣病を報じた写真家9人による作品の保存・活用を目指し、社団法人「水俣・写真家の眼」が2022年5月に設立された。計20万カットに及ぶネガフィルムのデジタル化やアーカイブ化をし、学習教材に使ってもらうことを望んでいる。背景には、写真家らの高齢化で、貴重な写真記録の管理が困難になる懸念がある。 今年9月3日、桑原さんら法人のメンバーは環境省を訪れ、作品の保存や活用を求めて要望書を提出した。要望書では「人類の過ちを検証し、繰り返さないために役立つと確信している」とした。
法人は今後、撮影時のエピソードの聞き取りを進め、写真家たちの「記憶」も語り継ぐつもりだ。法人設立の呼びかけ人となった事務局長の吉永利夫さん(73)は写真を記憶と共に継承することに意義があり「公害被害者に一人一人の人生があったことをくみ取り、自分ごととして捉える効果がある」と強調した。