無名の青年は水俣病を歴史に刻む使命を負った。写真家桑原史成さんと水俣との軌跡
「病室でカメラを持ってうろうろして、あまりうまく撮れていないのを見たのかな。優しい面倒見の良い人でした」 アサヲさんは湯堂地区の患者がいる家を一軒一軒、一緒に回り、桑原さんに写真を撮らせてあげてほしいと頼んでくれた。 「昔の農村ではしゅうとめが嫁を近所に紹介して回るじゃないですか。あれみたいなものでね。ずいぶん写真を撮るのが楽になりました」 ▽晴れ着でこぼれた笑み 最初に訪ねたのが、胎児性患者の上村智子さん。当時4歳の智子さんは首がすわらず、歩くこともできない。智子さんを抱く父親、智子さんの妹に授乳する母親をカメラに収めた。以後、水俣に行くたび、上村さん宅を訪れるようになる。 1977年1月15日、智子さんは「成人の日」を迎えた。家族は晴れ着を用意していると言う。撮影に駆けつけた。 「晴れ着と喜び。乙女、女性にとっては大きなお祭りごとじゃないですかね。歴史の一つの節目を刻みたいと思った」
「どういうわけか、笑みが出たんですよね。第三者が撮って笑みが出るのは珍しいと言われました」 その年の12月、智子さんは、21年の生涯を閉じた。 ▽分断された地域 水俣は原因企業「チッソ」の城下町。高度経済成長期に水俣病の被害は拡大し、行政も歯止めをかけられなかった。補償を巡って起きた地域の分断を、桑原さんも目の当たりにすることとなった。 最初にできた患者団体「水俣病患者家庭互助会」は、厚生省(当時)の「水俣病補償処理委員会」に仲裁を依頼する形でチッソと補償交渉を進めていた。しかし、1969年6月、互助会の一部がチッソに補償を求めて熊本地裁に提訴した。 互助会は分裂し、それぞれ「訴訟派」「一任派」と呼ばれるように。「訴訟派」のデモ行進で掲げられたのが、桑原さんが1960年に撮影した写真。当時9歳の小児性患者の少女だ。 ▽「友達じゃなか」 少女のことは地元紙、熊本日日新聞の記事で寝たきりの状態になっているのを知った。ぱっちりした目にひきつけられ、家族に撮影させてもらえるよう頼んだ。少女は目を天井に向けたまま、ほとんど動くこともない。目の美しさを捉えようと、桑原さんは何年も試行錯誤を重ねた。訪ねるうちに父親と親しくなり、自宅に泊まって焼酎を飲んだり、漁に同行させてもらったりした。