無名の青年は水俣病を歴史に刻む使命を負った。写真家桑原史成さんと水俣との軌跡
後年、桑原さんは大橋さんから、取材を受けた理由を教えられた。 「『桑原さんは正直だった』と言っていましたね。もし理屈を言っていたら断った、ってね」 ▽象徴となった網元の手 専用病棟は、一般病棟とは別棟にあり、桑原さんによると水俣病患者二十数人が入院していた。 水俣病でもだえ苦しんだ末亡くなった男性患者が、病室の壁に爪痕を残した―。そう聞いて撮影のため覗いた部屋には、男性患者の父親がいた。水俣市の隣にある津奈木町で網元の漁師、船場岩蔵さんだ。前年に亡くなった息子・藤吉さんと同じ病に侵され、同じベッドに身を横たえていた。 曲がったまま硬直した指。最後に会った1970年までの間に、岩蔵さんの指は手首のほうに巻き付くようにねじれていった。 「手が痛い、かなわん、とよく言ってましたよ。どんどんひどくなっていくのを見てましたから。悲劇ですよ。本当にかわいそうだなと思って」 ▽笑みと短い会話で
手を、撮らせてもらえないかと頼んだ。 「僕たちの世界では、どういうカットが(テーマを)象徴するか、代表するか、判断するんですよね。顔と手と腕でいろいろな撮り方をしたの」 「(岩蔵さんが)手が上がらんって言うんですよ。後ろから奥さんが手を支えて、ちょっと持ち上げたんですね。『きつかー、早く撮れ』と言うから、パパッと撮って。ほんの5、6秒で」 岩蔵さんは人なつこいおおらかな性格。桑原さんを見つけると呼び寄せ、見舞客からのジュースをくれた。水俣病による言語障害があり、完璧に意思疎通ができたわけではなかったが、「患者さんとは笑みと短い会話でつながっていくんですよね。議論したり気持ちに突っ込んでいったりしません」 岩蔵さんは1971年に79歳で亡くなった。孫に当たる男性とは今も連絡を取り合っている。 ▽「漁村には行きなさったと?」 病棟には水俣病が公式確認されたきっかけとなった「1号患者」として知られる田中実子さん(71)も入院していた。世話に来ていた母アサヲさんが「漁村には行きなさったと?」と話しかけてくれた。「今日は娘の洗濯物を取り換えに帰るから、案内しましょう」と言う。