コロナ禍はパラダイムシフトの契機か 「中央集権型の工業社会」から「地方分権型の生命社会」へ
これからの日本を運営する主体として
「地方自治」という概念は、ヨーロッパの都市と市民の歴史を踏まえた民主主義の理念でもあり、日本の集権的国家主義を弱体化するGHQの目的にもかなったものと思われる。しかし現実には、日本の自治体は条例もほとんど横並び、補助金などをつうじて中央官庁の強い指導下に置かれていた。つまり「地方自治」も「地方分権」も絵に描いた餅であったのだ。特に首都圏の住民は、毎日都心に通う人が多く自治体への帰属意識がほとんどなかった。 ところが今回、新型コロナウイルスへの対処において自治体の力、そして首長の力が実体として伝わってくるような気がした。逆に見れば、文書改竄問題などで露呈した中央官庁のモラル喪失と、累積赤字による財政難などで、国家の力が弱体化しているのだ。長く続いた政権の「一強」が裏目に出ているのかもしれない。 知事や市長といった首長は、直接選挙で選ばれる。 その分だけ、首相よりも国民の支持に直結している。その首長が強いリーダーシップを発揮して、首都圏、関西圏、中京圏で連携して自主的な政策をとれば、これからの日本を運営する行政の主力が、中央から地方(大都市中心ではあっても)へとシフトする可能性もあるのではないか。 今までのような理想論としての地方自治や地方分権ではなく、まずは大都市圏を核とする現実的な地方自治と地方分権であり、加えて札幌や福岡が遠隔の中心となり、さらに周辺の自治体に広げていく。そこに、官邸に人事権を奪われて仕事に対する熱意を保つことが難しくなっている霞が関の官僚を巻き込んで、財源の移譲と法制度の変更を進めていけば、相当のことができるだろう。 先進国の中でも、イギリス、ドイツ、アメリカは連邦国家であり、19世紀以来の長期的なスパンで見ると、そういった国の方が、中央集権の国よりも柔軟に運営され、時代の変化に即応できているように思える。また日本史においても、鎌倉時代、室町時代は連邦制のようなもので、戦国時代は各地の大名が独立国のようにふるまった。徳川家は諸大名を巧みに統制したが分権的ではあった。 今の県単位では小さいので、JRや電力会社の範囲が効率的に運営できる規模かもしれない。とはいえ、今の日本をいきなり「連邦制」にするというヴィジョンはまだ現実的ではない。また時に「道州制」も叫ばれるが、中央との関係を変えることなく自治体の規模を大きくしても意味はない。むしろそういった形式にこだわるのではなく、国の方針を待つのでもなく、自治体が連携して、自ら日本の政治を変えていく姿勢を見せることが先決だろう。 東京、大阪、名古屋といった大都市圏の首長がいずれも、国政に対してそれなりの変革意欲をもつ人物であることは、チャンスであるかもしれない。