コロナ禍はパラダイムシフトの契機か 「中央集権型の工業社会」から「地方分権型の生命社会」へ
中央集権的工業社会からの脱却
現在の日本は、ものづくりに特化した「工業社会」として精密化し、社会が成熟し、制度が複雑化しているが、逆にそれが足かせになって、インターネットを基軸とする「情報社会」への転換が進んでいないように見える。技術の世界では、輝かしい業績を上げた優秀な技術者が、大きなパラダイム(広範な科学や技術のベースとなる理論とシステム)転換に置いていかれるというのはよくあることだ。 キャッシュレス化も、テレワーク化も、オンライン教育も、掛け声ばかりでなかなか進まない。上司が残っていれば残業し、有給休暇は取りきれない。相変わらずの、新卒一括採用、終身雇用、年功序列。会社にいるだけで仕事をした気になる「集合の安心」があり、孤独にチャレンジを続ける「個人の挑戦」が弱い。工業立国の成功にあぐらをかいていたためか、社会制度の節々が錆びついているようだ。明治以来の中央集権的工業社会が賞味期限切れとなっている。情報社会への制度転換いわゆるデジタル・トランスフォーメイションを遂げるには、古い習慣を捨て、制度の錆を落とす必要があるだろう。 ここでアメリカや中国のような大国は別として、社会主義のくびきを離れた東欧の、南のブルガリアから北のエストニアまで、比較的小さな国が情報産業の雄になりつつあることに注目したい。工業社会になりきれなかった小さな国の方が、時代に合わせて社会制度を機敏に対応させ、優秀な頭脳労働者を情報産業に集約できるからだろう。時代は常にフレッシュな挑戦者にチャンスを与えるものだ。
新しい社会は地方分権から
近代工業社会のチャンピオンであった日本が、大きな転換を成し遂げるには、それなりの制度転換が必要だ。チャレンジの主体を、これまでのような国家と大企業という規模から、自治体とベンチャー企業という規模に、切り替えるのもひとつの方策ではないか。インターネットそのものが、中心を持たない網の組織という意味で、いわば分権型の発想である。 しかもこれからの世界は、地球温暖化による異常気象や新型コロナウイルスのパンデミックが示唆するような、過剰なグローバリズムからの転換を促す、新しいタイプの情報社会に向かうのではないか。政府は「Society 5.0」という、AI、IoT、ロボット、ビッグデータ、スマートシティ、SDGsなどを盛り込んだヴィジョンを策定したが、ややテクノロジーに偏った総花的なきらいがある。すでに大学では、生命情報学科、創造情報学科、デザイン情報学科などが誕生している。内実はこれまでの分野の専門家を組み合わせているのだが、方向としてはそういった、テクノロジーを逸脱する分野に広がる意味で、ここでは単に「生命社会」とした。あまりいい言葉ではないかもしれないが、工業社会の延長としての情報社会ではなく、文明の方向転換としての、工業社会、情報社会の基盤の上に成り立つ生命社会である。 口で言うのは簡単だが、社会はそう簡単に変わらない。しかしこの新型コロナウイルス禍は、世界的な危機であり、日本が変わらなくても世界の景色が変わってしまう可能性がある。よほど覚悟を決めて将来に踏み出さなければ生き残れないのだ。錆びついた中央集権社会から、生き生きとした地方分権社会へと移行することができれば、大きな起爆剤となるだろう。中央集権を目指した明治維新とは逆方向であるが、「一新」することにより、同じような強い力を発揮できるのではないか。 「中央集権型の工業社会」から「地方分権型の生命社会」へのパラダイムシフト。かすかにではあるが、そんな気運が見えてきたような気がする。 新型コロナとの闘いを機に、意欲と能力のある自治体の長が連携して政治を変え、国を変えることに期待したい。