「ずっと避けてきた……」いとうせいこうが「能」にドはまりした“意外な理由”
650年の古典の神髄を新訳で、文学として読む。 精選十曲の詞章を、いとうせいこうが訳し、そこからジェイ・ルービンが英訳した。ふたりの贅沢な曲ごとの解説も加え、新訳を味わい尽くす『能十番 新しい能の読み方』が刊行された。 本の解説として、柴田元幸氏や酒井雄二(ゴスペラーズ)氏と語り合った内容も収録されている。 いとうせいこうと言えば、日本のラップ界を長年リードするだけでなく、近年には近松門左衛門「曾根崎心中」や、山東京伝の戯作の現代語訳も行っている。日本語のバリエーション、語りの日本史へ多角的にアプローチを続けるいとうせいこうだが、意外にも「能は避けてきた」という。 なぜ、そんな彼が能にハマり、ついには“能は読むのが面白い”と伝える本を出すに至ったのか? いとうせいこう自身がその理由を語った『能十番』の序文より引用して紹介しよう。 *****
能を避けてきた。 これはジャズを避けてきたのに近い。 とにかく少しでも足を踏み入れたらうるさ型が山ほどいる。それでも侵入していく者はいるが、物書きであるような場合はそこが「あがり」という感覚が強い。 能は到達である、というイメージが私をしてそれを避けしめてきたのだ。 で、むしろ歌舞伎や人形浄瑠璃(じょうるり)ばかり観てきた。それは武士の芸能ではなく、あくまでも庶民のものであった。かつて浅草に長く住み始める当初、私は知りあった花柳界の姐さんに浄瑠璃を習いたいと言い、のどを潰すから最初は小唄でもどうですかと答えられて、そのまま三十年弱お稽古を続けた。実は私はすでに「春日豊菊(かすがとよぎく)せい」という名取りであり、時々誘われて三越劇場の小唄会などに出演したりもしている。 お師匠さんはやはり地方(じがた)の浅草芸者で数年前に引退された。小唄の世界では春日とよ喜菊(きぎく)とおっしゃったが、例えば最近の小唄会で男性方がよく明るい色の紋付きはかまを着ることを、ここだけの話、陰で嫌っている方であった。 「武張(ぶば)っててイヤねえ」と私にだけささやくのである。「やっぱり着流しでないと無粋(ぶいき)よ」とも何度か言った。それで私は間(あいだ)を取って、会ではスーツで出たものだ。 この「武張る」という言葉は浅草でだけ聞いた。いい言葉である。小唄を習っていて少しでもいい声を張ろうとすると、お師匠さんは軽い調子で「もっと力を抜いて。お座敷のものだからね。武張っちゃダメよ」と言うのである。それで私は自分の中のこわばりに何度も気づかされた。 のちに憧れであった浄瑠璃、つまり義太夫節(ぎだゆうぶし)を習うことにもなった。師匠は今の竹本織太夫(おりたゆう)、当時は豊竹咲甫太夫(さきほだゆう)といった。正式に師匠弟子の関係にはなれないから、私は取材のような名目でしょっちゅう大阪の師匠のお宅へうかがい、また東京では国立劇場の会議室をお借りした。ここで教わったことは多すぎて書けない。ともかく私は三百年続いてきた日本語の表現技術を口移しで習い、今に活かす方法を考えた。それでラップが上手くなったと思う。私はラッパーでもあったから。そこにも庶民の心意気というものがあった。 正直に書くと、狂言もずっと観ている。ほとんど和泉(いずみ)流であるが、若い頃のまだ野村萬斎(まんざい)になる前の野村武司君と知りあい、以来彼の会によく出かけている。新作を書いて野村万作(まんさく)、野村萬斎の二人に演じてもらったりもしているし、今でも狂言をコントに移せないか度々考える。笑いとして狂言はきわめて好みで、人物の適度な距離感、ナンセンスが見事だと思う。ほとんど武家の話だが、主役は太郎冠者といった使用人である。 ということで、私はうまく能だけを迂回して日本の古典芸能に親しんできたのだけれど、何年前だったかあり得ない角度から能にえぐられた。なぜだったか思い出せないが、私は謡(うたい)をスマートフォンに入れ、寝る時に必ず聴くようになったのである。小さく鳴る低い声、それも時にそれぞれがそれぞれで唸るコーラスになる歌。呼吸は深く、後ろで笛が不協和音のように響き、乾いた鼓(つづみ)に後押しされる。 睡眠薬なしに眠れなかった私は、その謡だけで眠れることがあった。それは不思議な現象で、おそらく科学的に分析すればテンポの問題や私の好きな音域の問題になるだろう。しかし私はそれより何より、と思った。 この人たちは何を言っているのだろう。