「台湾の一部」か「沖縄の一部」か 尖閣諸島の法的地位は
尖閣諸島に関して、最近2つの出来事がありました。1つは、中国の国家測絵総局が1969年に「尖閣群島」と日本名で表記した地図を日本外務省が公開したことです。2つ目は、中国の在米大使館員が、米国の研究者に対して「日本側が従来の態度を変更し、尖閣諸島は両国間の問題であることを認めた」と説明して回ったことです。 【図】中国・明時代の支配域は? 古文献に見る尖閣諸島の歴史的経緯 尖閣諸島をめぐる論点はいくつかありますが、基本的なものは「歴史的経緯」と「法的地位」です。ここでは、尖閣諸島の法的地位がどうなっているのか、についてみてみましょう。
ポツダム宣言とサンフランシスコ条約
日本の領土はどのように決定されたのでしょうか。大きく見ると、日本は戦前、東アジアを中心にかなり広い領土を持っていましたが、戦後は大幅に縮小され現在の領土になりました。この処理は法的にどのように行われたかという問題です。 1945(昭和20)年8月、日本は連合国が提示した「ポツダム宣言」を受諾して戦争が終了しました。この宣言の第八項は、「日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびに我らの決定する諸小島に局限せられるべし」と規定しました。つまり、本州、北海道、九州および四国は日本の領土として認めるが、その他の島については、日本の領土か否か、米、英、中、ソ連の四か国(宣言を発出した国)が決定することとなったのです。日本の領土を日本自身が決めることは認めないという恐ろしい宣言でしたが、日本が戦争に負けた結果であり、日本はそのことを含め、無条件にポツダム宣言を受諾するしかありませんでした。 ポツダム宣言から6年後の1951年に、日本は連合国と平和条約を結びました。サンフランシスコで署名が行われたので「サンフランシスコ平和条約」とも呼ばれています。日本と連合国の間の戦争処理、日本の独立回復と国際社会への復帰を法的に決定した条約であり、新憲法とともに、戦後日本が再出発するのに最も重要な法的基礎となりました。ポツダム宣言でうたわれた日本の領土の再画定もその中で行なわれました。