輪島を諦めない 朝市再建を目指す食堂店主の1年 能登半島地震、豪雨災害の爪痕と生きる「いつか、若者が戻れる町に」
■母含め親族4人が相次いで他界
紙さんは、自宅から車で40分かけて、穴水町にある災害ごみの仮置き場で働いていた。再会したときは地震直後に会った時よりも、憔悴して見えた。 私を車に乗せると、特に豪雨被害が激しかった場所を案内してくれた。爪痕が生々しく残る奥能登を走らせながら、吐き出すように、これまであったことを話し始めた。 3月、闘病生活をしていた母・和子さん(当時76歳)が他界。当時、輪島市内にある葬儀場は避難所になっていて使えず、葬式をあげることもできなかった。 地震後、和子さんを含め、親族4人が亡くなった。うち一人は、災害関連死の疑いがあった。 親族を相次いで亡くした紙さんに追い打ちをけたのが、9月の豪雨災害だった。犠牲者の一人、喜三翼音さんが、かつて「朝市さかば」に社会勉強のために手伝いに来ていた中学生だったのだ。 紙さんは店を始める前、地元で港湾工事や建設業に身をおいていた。そこで、久手川町に通じるバイパスの建設に携わった。久手川町は、塚田川が氾濫し、喜三翼音さんが、自宅ごと濁流に飲みこまれた場所だった。 かつて、自分が建設にかかわった地で、自分の店に来てくれていた子どもが、命を落としたーー。 ハンドルを握る紙さんの表情を、私は直視できなかった。
■豪雨で亡くなった女子中学生、紙さんの店で社会勉強していた
紙さんが翼音さんに出会ったのは、地震発生の半年前、2023年の夏の終わりごろだった。 忙しい時期に、すこしでも手伝ってくれる人を探していたところ、店の向かいで、輪島塗の器を販売していた夫妻が孫の社会勉強にと、声をかけてくれた。 それが、当時中学2年生の翼音さんだった。 「翼音に聞いたらやってみるって。うれしそうでした」 祖母の喜三悦子さん(64)は振り返る。
■飲み込みが早かった翼音さん
紙さんによると、翼音さんは最初、恥ずかしがって『いらっしゃいませ』がなかなか言えなかった。「でも、挨拶して人から可愛がられることっちゃあ覚えさせんと」。 日本の将来は人口が減るから、働き手がなくなる。「個人事業主」になってもやっていけるようにーー。 紙さんはことあるごとに、お店に手伝いに来る若い世代に伝えていたという。挨拶だけでなく、身の回りのものを整理整頓すること、わからないことがあったら、まずは自分で調べてみること。そんなことを教えていたと振り返る。 「シャバに出て役に立つことを覚えろっちゃあ、言っていたよ」と話す。 翼音さんは、飲み込みが早く、同じ時期にアルバイトに来ていた高校生にも可愛がられていたという。気が付くと、配膳しながらでも「いらっしゃいませ」が言えるようになっていた。 「今も思い出す。優しい子だった」 大晦日。地震発生の前日まで手伝いに来てくれた翼音さんは、祖父母と車で帰った。紙さんが翼音さんに会ったのは、その日が最後になった。 「親でもないけど、俺の命なんかくれても良いと思っている。今からやさけ」 前を向いたままそうつぶやく紙さんに、かける言葉は見つからなかった。 くすんだ景色に目が慣れたころ、突然、車窓から夕焼けが見えた。水色とピンクが交じり合った空に薄く染められた雲がゆっくりと流れていく。こんなに美しい夕焼けなのに、視線を落とすと、広がるのはえぐれた大地と、むき出しになった山肌。能登の人々は、そんなギャップのなかで日々を過ごしてきたのだ。