大衆ラーメンから高級天ぷらまで! 「カウンター形式の料理店」が日本文化に深く根付いた根本理由
カウンター店の意外なルーツ
大衆的なラーメン店からミシュランで星を取るような天ぷら店まで、カウンター形式の料理店は日常生活に溶け込んでいる。 【画像】「なんとぉぉぉぉ!」 これが江戸川区の「絶品立ち食いそば」です! 画像で見る(8枚) 酒類を提供するバーのようなカウンター店は明治時代から存在していたが、客の目の前で加熱調理をする店が登場したのは大正時代になってからだ。 その背景には、大正時代の自転車国産化の発展が関係している。実は、 「自転車のある部品」 がカウンター料理店の普及に深く関わっていたのだ。
カウンター料理店の初出は浅草の洋食店
和食のカウンター割烹(即席割烹)は、大正時代半ばに大阪で生まれた。昭和時代の初めに、大阪から東京に進出した「濱作」という店がきっかけで、東京でもブームになった。 屋台を店内に引き込む形で、カウンターの客の目の前で揚げたて熱々の天ぷらを提供する店が増えたのは大正時代末期。京橋の「ヒゲの天平」などが評判になり、こちらも昭和初期にブームとなる。 割烹や天ぷら店を模倣し、和風のカウンター店で西洋料理を提供する店も現れた。1931(昭和6)年創業の「とんかつ喜太八」。 カウンターの客の目の前で揚げるとんかつ店はたちまちブームとなり、雨後のたけのこのごとく東京中に増殖していく(カウンター店のブームととんかつ専門店の登場については、近代食文化研究会『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』参照)。 「とにかく大阪流の速席割烹と、天麩羅屋と、トンカツ屋が、續出の光景だ。いくら濱作が當てたからと云つて、はげ天が當てたからと云つて、喜太八が當てたからと云つて、さう猿の人真似が繁昌する譯はないと思ふのだが(とにかく、大阪流の速席割烹や天ぷら屋、とんかつ屋が次々に出てくる様子だ。濱作が成功したからといって、はげ天が繁盛したからといって、喜太八が人気を得たからといって、そんなに安易に真似しても上手くいくとは思えないのだが)」(鉄假面「銀座味覺評論」 『食道楽』1932年7月号所収) これらカウンターで加熱調理する店舗の資料上の初出は、大正時代初頭の浅草の洋食店。作家の永井荷風が1916(大正5)年に発表したエッセー「洋食論」で、次のように述べている。 「淺草公園の怪氣なる洋食屋の中には個々の食卓なくカウンターの如きものに人々皿を並べ肩を接して物喰へるさま、是市俄古(シカゴ)紐育(ニューヨーク)にても殊にいそがしき株式取引所の界隈にて見る風俗なりかし(浅草公園にある風変わりな洋食屋では、個別のテーブルがなく、カウンターのようなものに人々が皿を並べて肩を寄せ合いながら食事をしている。この光景は、シカゴやニューヨークの特に忙しい株式取引所の周辺で見られる風景を思わせるものだ)」 荷風は米国滞在中(1903~1907年)に、シカゴやニューヨークでカウンター店を目撃していた。カウンター料理店はまず米国で発展し、大正時代に日本に波及したのである。