政界揺るがす“勝負師”小池百合子氏とは 坂東太郎のよく分かる時事用語
「政界渡り鳥」とも称される政党遍歴
日本新党が最初に臨んだ国政選挙は1992年7月の参院選です。選挙前の所属国会議員はゼロ。何もないところからのスタートでした。小池氏は比例区から立候補し初当選します。日本新党の当選者は4人でした。翌1993年の衆院選では中選挙区時代の兵庫2区から鞍替え出馬して当選。出身地からの立候補でした。
この選挙で自民党は過半数割れ。共産党を除く非自民勢力が結集して細川非自民連立政権を成立させました。1955年からほぼ単独で与党の座にあった自民党が野党へ転落し「55年体制の終わり」と位置づけられた画期的出来事です。小池氏は総務庁(後に現在の総務省へ統合)の政務次官へ就任するとともに94年6月から党副代表も務めました。 ただ細川政権は94年2月に首相が突如発表した「国民福祉税構想」騒動で失速、4月に総辞職してしまいます。後継に連立相手の新生党・羽田孜党首を充てたものの弱体化著しく6月に総辞職となりました。自民党は、羽田内閣発足後に連立を離脱した日本社会党の村山富市委員長を首相とし、同じく細川政権の一員であった新党さきがけも抱き込んだ「自社さ連立」で政権を奪還します。 日本新党は、細川政権の事実上の立役者で新生党代表幹事の小沢一郎氏が進めてきた「新・新党構想」(後の新進党)に大半が合流して94年末に消滅。小池氏は新進党副幹事長へ就き、小沢氏が党首となった96年には党首補佐役として、来たるべき初の小選挙区比例代表並立制による総選挙へ備えました。しかし10月の総選挙で党勢が伸び悩んだ(小池氏は当選)後は党内抗争に明け暮れ、97年末に分裂、消滅。小沢グループは自由党を創設し小池氏も加わります。 当初は野党のスタンスだった自由党は98年末から自民党と連立して小渕恵三内閣与党となりました。小池氏は党の広告塔を担うとともに広報委員として「政治の師」小沢氏をもり立てます。与党入りしてからは旧経済企画庁(現在は内閣府へ統合)総括政務次官に就任しました。 自民・自由連立に公明党が加わると強烈なキャラクターで政策を押しまくる小沢自由党は次第に疎んじられ、2000年に政権を離脱します。この時に政権残留を希望したグループは保守党を作って自由党は分裂しました。小池氏は保守党へ参加。小沢氏と決別です。 2000年総選挙で保守党そのものが大惨敗する中、小池氏は当選。その後の党内紛争で創設された保守新党には加わらず、自民党へ入党しました。派閥は森喜朗派に入会。当時の小泉純一郎首相の出身派閥です。 03年9月、第1次小泉内閣が2度目の改造を行いました。ここで誕生したのが小池環境相です。森派は新参者で衆議院議員当選3回の小池氏を想定していませんでした。「清新」「女性」「改革」など、小泉首相が打ち出したいイメージにピタリ当てはまったのです。総選挙後の第2次内閣でも続投、04年9月の改造でも留任したばかりか、沖縄及び北方対策担当相まで兼務します。05年は「クールビズ」を提唱し大いに話題となりました。