「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(10)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ 西暦に代わる通年紀年法としての皇紀
仏滅紀年はなぜ採用されなかったのか
日本人が作成した通年紀年法に関する著書の中で、私が一番よくできていると見なしているのは、室町時代の神道家、吉田兼倶(かねとも、1435~1511)が作成した『新撰三国運数符合図』である。 これは、干支・中国の年号・仏滅紀年・日本の年号を並記した紀年表であり、この中では仏滅紀年を通年紀年法として使用している。 吉田兼倶は、神主仏従説を唱えた吉田神道の創始者でもある。にもかかわらず、兼倶が仏滅紀年を採用しているのは興味深い。吉田兼倶自身は、この4種類の紀年をシンクロナイズ(共時化)した年表であるこの著作は自分の独創である、と序文で自負している。 しかし、この通年紀年法としての仏滅紀年は、1873年の太陽暦導入時には検討すらされなかった。津田真道の「年号ヲ廃シ、一元ヲ可建ノ議」の中でも、一顧だにされていない。 仏滅紀年の導入が考慮されなかったのは、1868年3月13日の明治政府による布告第153から開始された、一般に「神仏分離令」と呼ばれる、神道を仏教から分離独立させる動きのためである。 「王政復古神武創業ノ始ニ被基諸事御一新祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テハ先第一神祇官御再興御造立ノ上…」とあるように、新政府は、王政復古により祭政一致の制度に戻るので、今後は神道を第一にするという内容が、実際は、仏教排斥の動きとなってあらわれたのである。 このような状況下においては、仏滅紀年が通年紀年法として採用される可能性は、政治的には全くなかったといえるだろう。(続く) ※次回は5月27日に掲載します。 著者紹介:佐藤正幸(さとう・まさゆき)1946年甲府市生。1970年慶應義塾大学経済学部卒。同大学大学院及びケンブリッジ大学大学院で哲学と歴史を専攻。山梨大学教育学部教授などを経て、現在、山梨大学名誉教授。2005~2010年には、President of the International Commission for the History and Theory of Historiography(国際歴史学史及歴史理論学会(ICHTH)会長)を務めた。主著に『歴史認識の時空』(知泉書館、2004)、『世界史における時間』(世界史リブレット、山川出版社、2009)、共編著:The Oxford History of Historical Writing: Volume 3: 1400-1800,(Oxford University Press, 2012)など。