存亡をかけた“小メーカー”の生き残り戦略 ボルボの新世代ディーゼル
高い労働単価、ブランド価値構築の戦い
さて、話はようやく今回の主役ボルボへと切り替わる。ボルボはそもそもの身代が全世界で年産50万台の小さなメーカーだ。マツダが130万台、スバルが90万台なのでその規模や推して知るべしである。2014年の日本での年間販売台数は1万3000台。月にして1000台少々だ。そういう小さなインポーターがどうやって生き残って行くのかを考えると、決して簡単なことではない。舶来品を盲目的に信仰するのもこの時代にどうかと思うが、一方でむやみに外車を「ぼったくり」呼ばわりして、日本車しか眼中に無い人達もまた偏っていると思う。もっとフラットに見る習慣を持たないとせっかくの面白いものを知らずに過ごしてしまうと筆者はおせっかいを焼きたくなるのだ。 さて、本題に戻る。ボルボは1927年にスウェーデンで創業した自動車メーカーで、アメリカ車を範とした穏やかな乗り心地のクルマを得意とした。また社会保障制度の充実した国情から労働単価が高く、どうしても車両価格が高くなる。1980年代以降のボルボの歴史は、車両価格に釣り合うブランド価値を構築していく戦いだった。 ボルボが武器にしたのは「安全性」だ。ボルボは1959年のボルボ・アマゾンに世界で初めて3点式シートベルトを採用した。以来、安全なクルマをテーマに、ボディ骨格の構造研究へとステップを進め、側面衝突を考慮した骨格配置などを製品にフィードバックしていく。 そうした経緯があって、1999年にフォードに買収されてからは、フォードグループ内で「安全のスペシャリスト」と位置付けられた。この当時のフォードには、ボルボ以外にも、ジャガー、ランドローバー、アストンマーティン、マツダなど数多くのブランドがあり、それぞれのブランド価値を明確にしなければ生き残れない状況にあった。
フォードにしてみれば、傘下の多くのブランドにそれぞれ勝手に同じ様なクルマを作られても意味がない。しかもフォードのプラットフォーム共用化構想があったから、漫然と作れば似たようなクルマがぞろぞろできてしまう。そこで各ブランドでブランド価値を明確にする戦略を取ったわけだ。ブランドの方向性がはっきりしなかったマツダが、以後「運転の楽しさ」を軸に据えたように、傘下の各ブランドにその後の方向性を確立させたという意味で、フォードのこの戦略は、2000年代以降の世界の自動車産業に非常に大きな影響を与えた。 ボルボは、その規模から言って元々迷うほど何でもできるわけではない。従来通りの方針を貫いて安全性能向上をブランドの核としていくことになった。 フォードは、経営の不振から、2010年にボルボを中国の持株会社、浙江吉利控股集団に売却する。ボルボは存続の危機を迎えた。幸いなことにスウェーデンの拠点はそのまま残され、ボルボの看板だけを利用する中国の自動車メーカーになる最悪の事態は回避された。一つには時代が変化し、少なくとも自動車メーカーに関しては買収したメーカーのブランド価値をそのまま利用する流れになってきていたせいもある。 ところが、フォード傘下を離れるということは、フォードからのエンジン供給が途絶えることを意味する。エンジンがなければ安全もへったくれもない。ここでボルボは存亡を賭けた生き残り策を考え出さなくてはならなくなった。