黒谷和紙と輪島塗の作家が語る「伝統工藝が人の希望になる」理由とは?輪島塗復興への思い
椀木地師・池下満雄さんの工房は、昭和の初めから時代が止まったようにフォトジェニックで、赤木さんが大好きだった場所。能登半島地震で工房も蔵もつぶれてしまい、数千個はあったというお椀の材料が崩れ落ちたとか。赤木さんはそれらをすべて職人さんたちと一緒に運び出し、建物をもとの状態に戻すべく建築家や大工さんたちと検討を進めています。 赤木: 池下さんの家は、わかっているだけで江戸時代から代々、木地師の仕事をされていて、池下さんの体の中には、輪島に培われてきた「いい形」が脈々と受け継がれている。それを利用させてもらって、僕の作品はできている。いま、池下さんが使っている材料というのは、86歳の池下さんのお祖父さんが若いころ、明治の終わりくらいに仕入れた木を蔵の中で乾燥させたもの。そういう大きな流れの中で、この仕事というのはできているんです。 <写真>震災前の工房内部
工藝とは、人間と人間が繋がり合って生きるために作り上げたもの
ハタノ: そこに工藝の本来の意味があるような気がします。僕が自分で和紙をやろうと思ったのは、韓国に行ったとき、店の看板や空間に韓紙を使っているのを見て、日本では"紙"が消えかけていると思ったことがきっかけでした。 僕らは大量生産、大量消費の時代に生きていて、新しいものが5年も経てばどんどん古くなって、自分の暮らしがその中で流されてしまいそうでした。だからこそ、日本でいちばん古くから作られてきた黒谷和紙というものの強さが羨ましかったし、ものすごく長いスパンで存在するものに魅力を感じました。昔からずっと続いてきて、未来に続いていく可能性があるものを、自分が続けることで繋げていきたい。大きな流れの中の一部になりたいと思ったんです。 この先100年後の未来にどういうものが残るのかと考えたとき、いままでずっと続いてきたものを繋げていくことのほうが絶対だと思っていて、そのための方法として自分の名前を使って活動しています。 赤木: 工藝というのは、本来的には人間と人間が共同して繋がり合って生きるために作り上げたものだと思うんです。家がぶっ壊れて、壊れた家の中に何もかもが埋まっていて、着るものもなければ、食べるものもない。そういう状況に置かれると、家が温かい空間を作り出して命を守ってくれていたこと、極寒の中で服飾というものが命を守ってくれていたこと、器はささやかなものですが、命を繋ぐ食べものを運ぶものとして、人の命を支えてきたものだと改めて気づく。 工藝の根本は、命を繋いだり助けたり、救済といってもいいと思うのですが、それを形にしたものだと思う。でも、平和で豊かな時代になると、どんどんその根本を忘れていってしまう。表現の手段になったり、スタイルやおしゃれや嗜好みたいなものになっていく。それはそれで必要だし、いいと思いますが、工藝のいちばんの根本は、「命を救う形」だったと思うんです。地震というのは大きな厄災には違いありませんが、その真っ只中にいると、それがすごくよくわかる。だから僕は、工藝そのものが人の希望になるというのは、実感としていますごくよくわかるんですね。 ハタノ: 例えば、お地蔵さんにお供えした食べものがなくなると、お地蔵さんが食べてくれたっていう話がありますよね。あれって、貧しくて食べられない人が、そのお供えを食べているんです。そんなことは誰も言いませんが、そういう社会や人の繋がり、流れが日本という国を作ってきたと思う。伝統的な工芸の世界を通して、そういうことを伝えていくことができるのではないかと感じていて、これからそういうことを表現していきたいと思っています。 <写真>令和6年能登半島地震で被害に遭った椀木地師・池下満雄さんの工房の様子