黒谷和紙と輪島塗の作家が語る「伝統工藝が人の希望になる」理由とは?輪島塗復興への思い
赤木: 輪島塗も黒谷和紙も、ものすごく伝統的なものですよね。かつて「人がものを作ること」は作為などなくて、土地に根差した自然の素材を加工して、暮らしに都合のよいもの、人の役に立つものを作っていた。そこから出発しながらも、お互いに職人にはなりきれなかった……。 ハタノ: 僕は一回職人になりきったんです。10年間やり続けて、黒谷和紙をいちばん漉いて納めるナンバーワンの職人になった。でも、職人でいる限り、現代では暮らしていけない。限界が見えてしまったんです。 ハタノ: 黒谷和紙は八百年、輪島塗は五百年。誰かが何らかのアクションを起こしたからこそいまに続いている。だから僕は作家活動を始めた。黒谷の集落で25年前は25人いた職人が、いまでは9人しかいません。産業として黒谷和紙を後世に残していくために、個人で黒谷和紙を売っていこうと思ったんです。 赤木: いまの時代、なぜ職人だと暮らしていけないんでしょう? ハタノ: 歩合制だからです。漉いた紙を問屋さんに卸すだけなので、1日10時間紙を漉いても月給がマックスで15万円。それだと妻と3人の子どもを抱えて食べていけるのか?不安と焦りしかなかったです。 赤木: 僕は角偉三郎さんの器に出合い、1988年に輪島に来てしまったわけですが、その当時はバブル絶頂の直前。いちばん景気がよくて、ものすごく高額で金ピカの輪島塗が売れまくっていました。そういう時代に修業を始めたわけですが、僕はそこで作られているものが全然欲しくなかった。だから自分が欲しいもの、必要とするもの、好きなものを作ろうと思った。独立してそういうものを作り始めたら、気づいたら作家のようなものになっていたんです。でも基本的には僕はあくまで職人という考えでやっています。 輪島塗というと、繊細で光沢があり、華やかな蒔絵が施された器をイメージする人も多いかもしれません。でもそれは、じつは近代以降のこと。1940(昭和15)年ごろに輪島を訪ねた柳宗悦が『手仕事の日本』の中で、輪島塗がよかったのは明治までで、それ以降は形も模様も衰える一方だということを書いています。 その背景には、もの作りが産業化して、目的が「使うため」から「売るため」に変わったことがありますが、このままではいけないと輪島塗の古い器の形、本来の美しさを現代によみがえらせたのが、赤木さんを輪島へと導いた角偉三郎さんであり奥田達朗さんでした。そして、赤木さん自身も自分の仕事はそこにあると考えていたといいます。 ハタノ: 今回の展覧会で和紙をテーブルや照明に貼ったり、スピーカーを包んだりしているのは、本来の和紙って暮らしの中でいろんな使われ方をしていたんだよということを伝えたかったからです。昔の人は、紙がどうやってできているかを知っていました。 木の皮を割いてつぶし、もう一回使いやすい木の皮を作っているというイメージがはっきりあったので、衣服にしたり、壁や襖にしたり、番傘や行灯にしたりしていたわけです。でも、現代になっていくと、いろんなものが専門化していって、和紙は文字を書くためのもので、水に弱いという共通認識ができてしまった。 昔の人は、少ないもので工夫しながら暮らしていました。そうやって原点に立ち戻って、そこから発想していけば、日本のもの作りももっとおもしろくなっていくのではないかということは感じます。 <写真>『おかえり』展示風景。左上が和紙を貼ったlistudeの12面体スピーカー。