地震で酒蔵が2度目の倒壊 父の遺志継ぐ若き杜氏 瓦礫に埋まった酒米に「希望」
遼太郎さんもできたてのお酒をふるまう。 「前の光景が、思い浮かぶね」 一口飲むと皆の目からは涙があふれだす。 みるみる広がった支援の輪によって醸され、届けることができたこの復興酒。中島酒造店の再建へ向け第一歩になるかと思われたが、程遠い現状があった。 「できるならここでやりたいけどまだイメージはできない」 遼太郎さんは、輪島の変わらぬ現状を目の当たりにして言葉を失い、再建について多くを語ることはできなかった。ライフラインも満足に復旧せず、人はどんどん離れていく。 「どこで何をやればいいのか」 「見通しが立たない…」 久しぶりに帰った輪島を見つめる遼太郎さんに笑顔はなかった。17年前の地震で負った借金もまだ残っているという。
能登の酒は能登の地で育まれ息づいてきた。地元の人に愛され、祭りの神事にも欠かすことはできない。できることならこの地で大好きな酒造りを…。 いつの日か、遼太郎さんが亡き父のように中島酒造店を復活させるその日を願ってやまない。 現在、能登地域で被災した8つの酒蔵の内、自分の蔵で酒造りを始めることができたのは1社のみ。中島酒造を始めほかの蔵は今も地元を離れ、金沢や小松、白山など無事だった酒蔵の助けを借りて、酒造りを続けている。
【編集後記】
地震が発生した元日は 初詣の取材をしていた。その日のオンエアを終え、帰宅しようと準備をしていたまさにその時に地震は起きた。警報音が鳴り響き報道フロアも大きく揺さぶられた。入社1年目で経験したこの出来事は生涯忘れることはないと、そう思った。 この取材の発意は、地震後初めて私が被災地(輪島市)で取材していた時のことだった。避難所となっていたハローワークで住民の方々と話しをする中で遼太郎さんの話が上がった。 「あそこの酒蔵も潰れている…」 住民の話を頼りに、中島酒造店があった場所に着くとそこには大量の瓦礫が広がっていただけだった。瓦礫をかき分け中に進むと酒造の一角に遼太郎さんがいた。最初は笑顔で取材に答えていた遼太郎さんだったが次第に目は涙で潤んでいった。 目の前の絶望的な状況に私は取材する立場にもかかわらず何を聞いたらいいのか、言葉が詰まった。 発災以降、約4か月にわたり追い続けてきたが、常に遼太郎さんの中には葛藤があったのではないかと思う。遼太郎さんは店の再建に関して多くを語らない。それはひとりの経営者として輪島のこの先に不安を抱いていたからではないかと思う。 今もほとんど毎日、被災地での取材を続けているが目に見える変化は少ない。仮設住宅の建設が進んでも瓦礫や波打つ道路はあの時のままだ。 この先、中島酒造店が輪島がそして能登が、復興したと言える日まで取材を続けていきたいと思う。 ※この記事は、テレビ金沢とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。