ユダヤ文化を知る――正統派のラビが日本大使を「茶の湯」でもてなした話
日本文化を盛り上げる「見立て」
ところで、今回のラビ茶について後日、茶の湯に詳しい知人に説明したところ、「それは、まさに“見立て”だよ」と言われた。 その時はよく意味が分からなかったのだが、茶道の流派の一つである表千家のHPでは、「見立て」について以下の通り説明している。 〈千利休は、独自のすぐれた美意識によって道具類の形を定めたり、本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として「見立て」て、茶の湯の世界に取り込む工夫をしました。 この「見立て」という言葉は、「物を本来のあるべき姿ではなく、別の物として見る」という物の見方で、本来は漢詩や和歌の技法からきた文芸の用語なのです。 ~中略~ 利休に留まらず当時の茶人たちが、喫茶用としての茶碗といえば唐物の茶碗が主流であったのに対して、朝鮮半島の雑器であった高麗茶碗をわび茶の道具として採り入れた精神や、当時の南蛮貿易でもたらされた品々を茶道具に転用したのも、「見立て」の精神だといえるでしょう。このように、茶の湯に何かを採り入れて、新鮮で趣のある試みを加えようとするのが「見立て」の心でした。近代では、早く仏教美術などの品々が茶室に採り入れられたり、また世界各地の陶磁器やガラス製品、あるいは金属製品なども茶道具として「見立て」られています。 茶の湯を楽しく実践し革新する上でも、この「見立て」の精神は、茶の湯の原点とでもいうべき心なのです。たとえば、旅先でその土地の伝統工芸品などを眺めつつ、これを蓋置や香合として見立てられないかなど考えながら歩くのも旅の楽しみであり、茶の湯の生活の楽しみでもあります。また、すぐれた美意識を伴った「見立て」の心が、各地の伝統工芸や伝統産業を活性化させる可能性もあるでしょう〉 長々と引用したのは、筆者が千利休に匹敵する茶人だなどと言いたいからではもちろんない。日本の強みは、自分たちの幸せや豊かさを追求するために、仮に他国の文化であっても、自由な発想で自分たちのやり方に組み込むことができる柔軟性だと、改めて認識できたことを強調したいからだ。「良いものは良い」と受け入れることができるのは、単に柔軟性だけでなく、自分の生活や人生に対する前向きさを表すのだと思う。 ハロウィンやクリスマスを祝う日本人は節操なしだ、と断ずるのではなく、良いものは取り入れ新たな文化にしてしまう柔軟性こそが、日本の文化の深さと多様さ、異文化を受け入れる度量を十分に示していると思うのである。
G7/G20 Youth Japan共同代表/東京大学先端研創発戦略研究オープンラボ(ROLES)連携研究員 徳永勇樹