「知の王者」物理学の栄光と黄昏……「コスパ時代」に科学が生き残る道はどこにある?
物理帝国主義
20世紀における物理学の赫々たる成果を描こうとする論考の冒頭に、物理学にとって景気の悪そうな話題を持ってきたのに当惑する人があるかもしれない。しかし、物理学が20世紀の社会全体に及ぼした絶大な影響を理解するには、世紀の変わり目におけるこの状況を確認しておいたほうがいい。新たな展望を得るには、いかなる20世紀の歴史を背負って、かようなことになったかを知ることが重要である。起承転結のある人間活動として科学も捉えないと、科学の知を人間が主体的に使う立場には立てないのである。 「退場」というのは、もちろんかつて「主役を張っていた」からであり、「既得権益の減少」もかつては巨大な「権益」を持っていた証拠なのである。確かに、物理学を科学と技術の世界の、ひいては知の世界の王者であると自他ともに認めていた時代があったのである。 「王者」というのは、一義的にはまず知的な影響力である。他の多くのサイエンスも物理学を手本に自らの学問を革新した。また、物理学の長足の進歩は知の普遍性とその根拠を哲学的に問う営みさえも喚起した。 「王者」の第2の側面は、社会的な力強さであった。物理学は測定手段をはじめとするさまざまな新しいテクノロジーの実現を可能にした。これは経験の蓄積に依存していた技術の世界を革新し、産業・経済を変え、その産物である製品の普及は人々の生活を変えた。フランシス・ベーコンの言う「知は力である」の震源地が、20世紀の物理学であった。 「王者」の第3の側面は、科学者という専門家が表に出て世界を変え、その過程で科学者自身の社会的機能が変えられていったことである。20世紀の物理学者はこの役割を社会の中で演じ、21世紀での科学と社会の付き合い方に多くの教訓を提供した。 筆者が大学に入った1950年代後半には、科学諸分野の中で物理学の地位は絶頂を極めているように見えた。「物理帝国主義」という言葉が誇らかに語られていたし、この言葉が違和感なく伝搬する学問の世界があった。そしてこの頃から、急拡大する科学と技術の世界で「主役を張り」、その結果いつの間にか巨大な「権益」を溜め込んだのである。 他方、近年、物理帝国を震撼させているという「バイオ」「情報」「環境」の科学は物質世界を相手にしてきた物理の流れとは別のものであるが、その研究手段や社会的に大きな存在となることを可能にした技術は原子の物理学であった。それなしには、これらの知識の発展もその社会的影響も持ち得なかったであろう。