日航機墜落から30年 残された課題と謎 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
8月12日に日航機墜落事故から30年を迎えます。単独の航空機事故としては世界最悪の被害を出したこの事故は、死者数もさることながら歌手の坂本九さんが犠牲になったり、奇跡の生存者4人の救出劇があったりして報道も過熱しました。「ボイスレコーダー」や「ダッチロール」といった航空用語が頻繁に伝えられた事故でもありました。30年という節目に際して、犠牲者の方々のご冥福を祈りつつ、事故の概要をあらためて振り返ってみます。なお事故の様子については1987年6月に発表された旧運輸省(現在の国土交通省)の航空事故調査委員会(同運輸安全委員会)最終事故調査報告書に依っています。
単独事故では世界最悪の大惨事
《離陸12分後に圧力隔壁が破損》 1985年8月12日午後6時12分。乗員乗客524人を乗せた日本航空123便が定刻より12分遅れて羽田から大阪に向かって離陸しました。機体は米ボーイング社の開発した747SR-100型(愛称ジャンボ)。主に日本の航空会社向けに作られた500人以上が乗れる短距離超大型航空機です。 12分後、相模湾の上空で機内の気圧を一定にするための圧力隔壁が破損し、客室内の高圧空気が尾部へと噴き出して垂直尾翼の半分を破壊しました。これで機体の安定性が保ちづらくなりました。さらに機体尾部の上位に配管されていた油圧系統4本も破断します。これで操縦系統のコントロールがほぼ不可能となりました。わずか1分から1分半のできごとでした。 垂直尾翼を失ったため、機体はちょうど「8」の字を描くような不安定な蛇行航行に陥りました。横すべりと横揺れが左右に繰り返されるダッチロールです。機長を初めとする航空乗務員は事故原因が分からない中、破壊されていなかった4基のエンジンを必死で操ります。急降下や急旋回など打てる手をすべて打った後、午後6時56分ごろ、群馬県の御巣鷹山付近に墜落しました。離陸からわずか50分弱の出来事でした。 《奇跡の4人の生存者》 死者は乗務員15人で乗客505人の計520人。生存者はわずか4人という大惨事でした。日本の航空史上最悪であると同時に、世界の航空事故史でも単独では最悪です。なお複数機による史上最多の死者数を出したのは、1977年3月にテネリフェ空港(スペイン領カナリア諸島)の滑走路上でボーイング747型機2機が衝突した583人です。 後に述べるように悪条件が重なって、当初は墜落現場の特定すら難航しました。生存者が確認できたのは翌13日午前10時以降。長野県警山岳救難隊、陸上自衛隊、地元消防団などによってなされました。うち乗客3人(あとの1人は乗務員)は、激突の損傷や火災を比較的免れていた胴体中央部に座席がありました。とはいえ皆重傷です。