日航機墜落から30年 残された課題と謎 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
遅れた救助、墜落から16時間後
事故発生の8月12日夜から翌日にかけて、当時群馬、長野、埼玉の各支局にいた記者や地方紙記者は情報の錯綜ぶりを鮮明に覚えています。19時ごろに日航が管制のレーダーから123便が消えたのを機に対策本部を置き、同45分には運輸省も対策本部を設置します。当初の目撃情報が多かった長野県の警察本部が対策本部を設置したのが5分後。「どこに墜落したのか」と3県の記者が右往左往し、日航側の記者会見は20時36分の段階で「現場は確認できない」と発表します。埼玉県も秩父地方ではないかという報告があって現場に向かいました。22時35分には日航の対策本部が「長野県」という見通しを発表します。 「このあたりではないか」という場所は険しい崖や岩場で山また山。到底深夜に立ち入るなど不可能な状況でした。御巣鷹山の尾根と分かったのが墜落から約10時間を過ぎています。今でこそ有名な地名ですが、当時は地元のごくわずかしか知らない山でした。しかも正確にいうと現場は御巣鷹山そのものではなく「御巣鷹山付近」です。事故後に「御巣鷹の尾根」と呼ばれるようになりました。それくらい分かりにくかったのです。 最初の頃に3県の中で最も可能性が薄いとみられていた群馬県と分かっても難航します。3県の警察本部や応援を求められた警視庁、航空・陸上自衛隊から米軍の協力まで得て必死の態勢で臨むも群馬側の目撃証言がほとんどなく、事故現場付近に人家もなく、大変険しい地形で登山道すら存在しないなど悪条件が重なり、救助が遅れました。生存者の救出に長野県警山岳救難隊が関わっているのも上記のような経緯からです。 もう少し早く救助できたら助かる命もあったのではないか。最終事故調査報告書には死因を「即死」か「即死に近い」と分析しています。一方で、生存者の証言では墜落後しばらくは生き残っていた人がいたとしています。
--------------------------------------------------- ■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】(http://www.wasedajuku.com/)