根強い「斎藤道三の子・義龍は実子ではなかった説」は本当か?息子を無能呼ばわり、正体不明な側室の存在も…渡邊大門が関係性を整理
NHK大河ドラマでは「桶狭間の戦い」や「関ヶ原の戦い」など、大名間での存亡をかけた合戦が描かれてきました。しかし歴史学者・渡邊大門先生によると「他国の大名だけでなく、親子や兄弟、家臣との抗争も同じくらいに重要だった」そうで――。そこで今回は、渡邊先生の著書『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』から「斎藤道三・義龍親子」についてご紹介します。 【書影】身近な者同士が命懸けで戦った…戦国大名の本質に鋭く迫る。渡邊大門『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』 * * * * * * * ◆義龍は道三の実子だったのか 斎藤道三は後述するとおり、子の義龍(よしたつ)と争った。その理由として、義龍が道三の実子ではなかったという説がある。 道三には小見(おみ)の方という正妻がいたが、側室・深芳野(みよしの)の存在も知られている。 深芳野は、丹後国の名門である一色義清(よしきよ)の娘といわれているが、詳しいことはわかっていない。生没年すらも明らかでなく、深芳野の生涯はほぼまったく不明である。 では、どのようにして、道三と深芳野は結ばれたのであろうか。
◆道三、頼芸、深芳野の関係 深芳野は、もともと土岐頼芸(よりのり)の愛妾だったといわれている。 頼芸は兄の頼武と守護職を争っていたが、大永5年(1525)に家督を奪取すべく美濃国守護所を占拠した。そのとき道三も大いに貢献したという。 頼芸は深芳野を寵愛していたが、大永6年(1526)に道三に与えたという説がある。つまり、頼芸は褒美として、自らの愛妾を道三に与えたということになろう。 この話は、後世に編纂された『美濃国諸旧記』に記録されたものである。 別に、もう少し異なった記述をしたものがある。 道三は頼芸が愛妾として深芳野を囲っていたことを知り、しきりに所望したという話だ。それほど深芳野は美しかったのであろう。 道三は非常に殺気立った面持ちで、深芳野を所望したという。根負けした頼芸は「そこまで言うならば」ということで、深芳野を道三に与えたと伝わる。 のちに、道三は頼芸を追放するのであるから、このときすでに主従の立場が逆転した様子がうかがえる。この話は、後世に成った『美濃明細記』という記録に残されたものである。 二つの記録は後世の編纂物であるため、十分な検討を要しよう。頼芸が道三に深芳野を与えたという話は、創作の可能性があることを申し添えておく。 深芳野が産んだといわれる道三の子の義龍は、のちに大きな問題となった。道三の長男である義龍は、本当に実子だったのかについて、もう少し考えてみよう。
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