根強い「斎藤道三の子・義龍は実子ではなかった説」は本当か?息子を無能呼ばわり、正体不明な側室の存在も…渡邊大門が関係性を整理
◆義龍生誕の時期 先ほどの二つの記録によると、道三が頼芸から深芳野を貰い受けた翌年、義龍が誕生したという。 義龍の生誕は、大永7年(1527)のことである。この時期が実に微妙な時期だった。 道三が深芳野を側室として迎え入れた時期も、義龍が誕生した時期も、何月だったか不明だが、通常、懐妊してから約10ヵ月で子供は誕生する。それゆえに義龍をどちらの子とすべきかが問題なのである。 一説によると、深芳野は道三の側室となった時点で、頼芸の子を懐妊していたといわれている。 これが正しいとするならば、道三は深芳野が懐妊していた事実を承知のうえで、結ばれたことになる。当時、こうしたことが実際にありえたのか、例に乏しく不明である。 この説が俗説として簡単に退けられないのは、道三と義龍との親子関係が実に複雑だったからである。 道三は、常日頃から義龍を無能呼ばわりしていたという。道三が義龍を無能呼ばわりしたのは、実子でなかったからであると考えられている。そのため道三と義龍は、犬猿の仲だったという。 義龍は伝聞などによって、自身が道三の実子でなかったことを知った可能性が高い。一説によると、義龍は出生の秘密を長井隼人正から明かされたというので、その言葉を信じたのだろう。 2人の関係が実の親子でないということは、父・道三の義龍に対する態度に滲み出たのかもしれない。血も涙もない「美濃の蝮」と恐れられた道三だったが、意外に血縁関係を気にしていたのだろう。 義龍が道三の実子でないことを感じていたならば、のちに道三が実父の頼芸を追放したことを許せなかったはずである。 こうして、義龍は道三を討とうと強く決意する。
◆家臣から見限られた道三 ただ、こうした話は俗説に過ぎないのではないだろうか。 天文23年(1554)の段階において、道三が家臣団によって鷺山(さぎやま)城(岐阜市)に移され、隠退を余儀なくされたのは事実である。 おそらく道三は、家臣から見限られたのだろう。家臣団の中には、義龍を主君と仰ぐ勢力があったに違いない。それゆえ道三は、義龍の弟たちを偏愛したという。 いずれにしても道三が家臣からの支持を失い、やがて斎藤家中が分裂したことによって、道三の追放そして討伐に至ったと考えられる。 ※本稿は、『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』(星海社)の一部を再編集したものです。
渡邊大門
【関連記事】
- 武田信虎を追放した子・信玄。その理由は「信虎が悪逆無道だったから」「義元と信玄の共謀」…渡邊大門が<5つの説>を検証
- 本郷和人 武田信玄の失敗は「北信濃10万石に10年も費やしてしまった」こと…信玄・晩年の領土規模<約60万石>を信長は20代で達成していたという事実
- 「信玄は偉大で勝頼は凡庸」との評価は正しい?なぜ二人は「甲斐」に拠点を置き続けた?新府城に景徳院。甲斐武田終焉の地を本郷和人先生と歩いて見えてきたもの
- 本郷和人 武田勝頼の失敗は<信玄超え>した高天神城にこだわりすぎたこと。信長から「救援しても見捨ててもアウト」という<詰んだ状況>に追い込まれ…
- 本郷和人 武田信玄最大の失敗「疑いのない後継者」長男・義信の自死はなぜ起きたのか…「ただの一武将」四男・勝頼が継いだことで武田家には軋轢が