「学者たちも認めない?」”異例”の「学者枠」…最高裁判事任命の事例が示す「都合のいい人事」とは
異論を許さない全体主義体制
この見方については、あるいは、うがち過ぎの推測ではないかという人がいるかもしれない。しかしながら、この見方は、先のような、異例の、いささか不可解な人事、その理由について学者を始めとする法律家を納得させる説明を行うのが容易ではないと思われる人事についての説明としてみると、実務家兼研究者であった私にとっても、唯一、腑に落ち、納得のいく説明だったことは確かである。私がその後話してみた数人の実務家(裁判官と弁護士)、学者の意見も同様であった。 もしもそうであるとするならば、当時の、また現在の司法行政のトップたちにとって、学界などは、二次的な、よりストレートな言葉を使えば、どうでもよい、つまりその反応など全く気にしなくてよい存在だったのであり、学者出身の最高裁判事ポストというきわめて重要な、国民、市民の権利に深い関わりのある人事についても、卑近な、表には出しにくい目的が優先したということになる。そして、現在の裁判所のあり方を前提とするならば、そういう事態はありうるのではないか?そう考えざるをえないのである(なお、学者枠の最高裁判事には判決の理論面を下支えするという役割があるのだが、最近の大法廷の判断は、学者たちから理論面の脆弱さを指摘されることが多くなっている)。 ところで、裁判員制度については、その後、実際に、全員一致の合憲判決が出ている(2011年〔平成23年〕11月16日最高裁大法廷判決)。 この判決の当否はおくとして、私がここで読者に思い出していただきたいのは、第1章に記した田中耕太郎第2代最高裁長官の「〔砂川事件に関する最高裁の審議では〕実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶる元となる少数意見を回避するようなやり方で〔評議が〕運ばれることを願っている」という言葉である。裁判員制度違憲を訴える訴訟に関する評議についても、「全員一致の合憲判決を生み出し、世論を揺さぶる元となる少数意見を回避するやり方で評議が運ばれることを願った」人物ないし人々はいるのだろうか?また、いるとしたら、それは誰なのだろうか?それを考えていただきたいのである。 いずれにせよ、裁判員制度導入決定後、現場の所長たちから、制度へのラヴコールが口々に上がったことは紛れもない事実である。この時点を境として、司法行政のあり方、裁判官の世界のあり方は、矢口洪一体制時代以上に硬直的、一元的なものとなっていった。つまり、異論を許さない一種の全体主義体制であり、私のような単なるリベラル、自由主義者にすぎないような者にとってさえ、もしも公式見解と異なった意見を何事についてであるにせよ抱いているならば、もはや居場所がないような体制ということである。 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」「なぜ、日本の政治と制度は、こんなにもひどいままなのか?」「なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から抜け出せないのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)