だれかを「尊敬する」ということと、Fとの出会い~サンフランシスコ【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
■Fから学んだこと 4年ぶりに、サンフランシスコでFと再会した。研究所や大学での用務の合間に、Fと一緒にサンフランシスコの街に繰り出し、フィッシャーマンズワーフでシーフードを食べたり、おいしいIPAを飲みながらブリトーを食べたり、カストロやヘイトアシュベリーを散策したりした。その時のサンフランシスコはちょうど晴れていて、散歩するのにちょうど良い、とても気持ちの良い空気だった。 仙台での大学生時代、私があまり社交的ではない生活をしていたことは、この連載コラムでも触れたことがある(7話や42話など)。5畳の自宅でひとり安酒を飲みながら、あるいは、通学中に原付に乗りながら、友人に教えてもらった、くるりのアルバム『TEAM ROCK』なんかをよく聴いていた。発想が内向的で、自信と自己アピールに欠け、何かやりたいことがあっても、それをはっきりと主張することができなかった。俗に言う「東北人気質」の典型である。 何かにチャレンジはしたいが、それよりも、「失敗を怖れる」「恥ずかしがる」という発想の方が勝っていた。そのような自分を一度は受け入れるも、結局そのような自分に自己嫌悪したりして、ひとりで負のスパイラルに陥ることがままあった。そんな私にとって、「仙台(東北)から京都(関西)への引っ越し」というのは、これまでの私の40余年の人生の中での最大のチャレンジであったともいえる。 そういう経緯もあって、現在の私を司る性格の大部分は、京都での大学院生時代に私が後天的に作り上げたものであると思っている。そして、その過程に少なくない影響を与えたのがFである。京都での彼との出会いがなければ、現在の私はないと断言できる。 Fは、研究室は違えど、京都大学の同じ研究所で、私と同じくエイズの研究に従事する先輩の大学院生だった。研究所のベランダにあるソファに並んで座り、一緒にタバコを吸いながら(当時はまだ、研究所の構内でもタバコが吸えたのである)いろいろな話をした。そして公私さまざまな相談にのってもらい、愚痴を聞いてもらい、バカ話をしながらも、エイズの研究についての真面目な議論を交わしたりもした。 京都の木屋町にあった「Modern」という店(今はもうない)で、よく一緒にビールを飲んだ。たとえばある深夜には、私が実験を終えて帰路についているとき、研究所に向かうところだったFと川端通りですれ違い、なぜかそのまま連れ立って木屋町に飲みに行ったりしたこともあった。