だれかを「尊敬する」ということと、Fとの出会い~サンフランシスコ【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第63話 「東北人気質で、内向的な自分を変えたかった。彼といろいろな話をする中で、彼の思考やマインドを真似て、新しい考え方を学んだ――」。今回は、筆者にとっての「だれかを『尊敬する』ということ」の定義、そして、現在の自身の思想に少なからぬ影響を与えた先輩Fについてつづる。 【写真】フィッシャーマンズワーフで食べたシーフードなど * * * ■カリフォルニア州、サンフランシスコ 2023年10月、アメリカのカリフォルニア州・パームスプリングスで開催された、エイズに関する研究集会に参加した(62話)。そこから飛行機で1時間半、サンフランシスコ国際空港に着陸。サンフランシスコには初上陸である。 同じカリフォルニア州ながら、サンフランシスコは、気候も天候も雰囲気も、パームスプリングスとは全然違う。同じ「カリフォルニア」なのに、パームスプリングスに比べると、サンフランシスコは肌寒いし、天気もあまりパッとしなかった。空港に着くと、すぐに慌ててスーツケースからユニクロのパーカーを取り出してそれを羽織った。 その翌日。サンフランシスコのミッション・ベイにあるグラッドストーン研究所で講演をし、隣接するUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)で研究打ち合わせをこなし、淡々と用務を遂行した。 ■「尊敬」の定義 一般的な文脈において、だれかを「尊敬する」というのは、だれかを「ヒーロー視する」ということと意味が似ている。しかし、私の中での「尊敬」の定義には、その「リスペクト」の意味に加えて、「その人を絶対に超えられない」という「安心感と諦観」のニュアンスが含まれている。 それは、「『絶対に超えられない』からこそ、ずっと尊敬し続けることができる」という安心感、あるいは、「どれだけ頑張っても、その域に到達することができない」というある種の諦観からくるものともいえる。ジョン・レノンやカート・コバーン、ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンという、ロック史における偉人に尊敬が集まるのにも、そういう文脈やニュアンスがあるようにも思う。 そんな文脈の中で私が「尊敬」する人が、私の40余年の人生の中に少なくともふたりいる。そのうちのひとりが、現在サンフランシスコに住んでいる、私の京都での大学院生時代の先輩にあたるFである。