「かっこいいと言わせたい」――世界初のプロレス義足で戦うレスラーと義肢装具士の挑戦
2021年6月6日、さいたまスーパーアリーナ。80年代のトップレスラーでこの時64歳の谷津嘉章さんが放った見事なスープレックスに会場が揺れた。その理由は64という年齢だけではない。谷津さんのスープレックスの軸足、右足が義足だったのだ。この一撃はいかにして生まれたのか。そこには谷津さんの執念と、それを支えた義肢メーカーの心意気があった。(取材・文:岩瀬大二/撮影:片山よしお/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
もう一度、五輪アスリートとして、プロレスラーとして
「終わってほっとしています」と2カ月半前のビッグマッチを柔和な笑顔で谷津さんは振り返った。 プロレスに特化して作られた義足は、世界初だという。 「足を引っ張られたり、ねじられたり。逆に相手に当てることもある。義足でどこまでダメージがあるのか実戦でやらないとわからなかったので」 復帰戦は期待よりも不安、恐怖心の方が大きかった。
谷津さんは1980年代から90年代のプロレス黄金期を牽引した。もともとはレスリングの強豪選手として名を馳せ、1976年のモントリオール、80年のモスクワと2大会のオリンピック日本代表に選ばれた。だが、モスクワ大会は当時の政治問題によるボイコットで出場できなかった。 悔しさをばねに80年に新日本プロレスに入団し、華麗なスープレックスなどを武器に活躍。その後、ジャパンプロレスを経て、87年にはもう一つのメジャー団体・全日本プロレスに移籍、以降、インディー団体の立ち上げ、加入した団体の崩壊など、紆余曲折のプロレス人生を経験した。
さらに、2019年6月、糖尿病による合併症の悪化で右足を切断。栄光と挫折を存分に味わったリングを去り、故郷の群馬県でひっそりと暮らす……はずだった。
きっかけは東京五輪の聖火ランナー
奮い立つきっかけがあった。義足をしていた2019年12月、東京五輪の聖火リレーの走者に選ばれ、足利工大付高(現・足利大付高)時代にレスリングで汗を流した栃木県足利市を義足で走るチャンスを得た。モントリオールで8位に終わったリベンジの舞台としていたモスクワは夢に消えた。それゆえ、五輪参加にかける思いは強い。 実はその前の2019年夏、入院中にプロレス団体「DDT」の高木三四郎社長から、「義足レスラーとしてリングに上がらないか」という予期せぬ提案があった。 「でも、その時はプロレスのリングに上がることは考えてなかったね」という谷津さん。「『もし、社長にそんな気持ち(要望)があるならば』って、冗談で返答はしましたけど」。だが翌年に、本気の高木社長から技師メーカー「川村義肢」を紹介されたことで、復帰を前向きにとらえられるようになる。失意のどん底から、走ることで高まった気持ちは、さらに燃え上がっていった。