二年の収監後に放免された『まんぷく』萬平のモデル・百福。信用組合理事長になって平穏な暮らしが続くと思いきや、妻の心にまさかの変化が…
◆心の変化 正月の三が日には、池田の自宅に年賀の客が絶えません。とうとう百人を超すようになると、もう仁子の手に負えなくなり、コックを二人呼んでお膳を用意するほどのにぎわいになったのです。 仁子は家事の合間に、映画と文楽を見るのを楽しみにしました。洋画が好きで、映画を見て帰ってくるといつも主題歌を口ずさみました。『腰抜け二挺拳銃』(1949年、米映画)でボブ・ホープが歌った「ボタンズ・アンド・ボウズ」(ボタンとリボン)や、フォークソングの「テン・リトル・インディアンズ」をきれいな声で歌いました。若い頃から親しんだ英語の発音はさすがに上手だったそうです。文楽もよく観に行きました。こちらは若い頃の百福にそっくりな人形遣いがいたためです。 須磨(仁子の母)はもっぱら、孫の面倒を見ました。幼い宏基と明美(長女)が可愛くて仕方がなかったのです。二人が幼稚園に通っている頃は、いつも三人が川の字になって寝ていました。小学生になって、二階の個室をもらうようになると、須磨は孫のことが気にかかり、夜中に階段を上がって様子を見に行くのでした。顔をさわって、ちゃんと息をしているか確かめるのが日課だったのです。 一見、平和な暮らしです。 しかし、仁子の心に変化が生じました。 今は幸せだけれど、人の世は無常。泉大津の時のように、いつなんどき、また家族に災難が降りかかるか分からない。結婚した当時、「人間にとって一番大事なのは食だ」と、塩や栄養食品の開発に取り組んでいた百福が、今は慣れない銀行の仕事をしている。大丈夫だろうか。そんな不安がよぎったのかもしれません。「私にできることは祈ること」と、仁子は信仰の道に入りました。
◆巡礼の旅 山梨県にある日蓮宗総本山久遠寺の修行僧だった関法尊(ほうそん)師に出会い、教えを受けることにしました。人を悲しみから救ってくれる観音様の慈悲を知り、自らも観音様と一体となることを望んだのです。 近畿二府四県と岐阜県に点在する「西国三十三観音霊場」を巡礼しました。日本ではもっとも古い霊場で、全部を回ると「現世のあらゆる罪が消滅する」というので多くの巡礼者を集めました。仁子はいつも行けるところまでは車で行き、後はたった一人で歩きました。元気な時は、馬が歩く幅くらいしかない狭い山道を登りました。観音様めぐりがすべて終わると、すぐに新しい巡礼の旅を始めました。 現世利益を叶えてくれるという「近畿三十六不動尊霊場」、病気を治して長生きできるという「西国四十九薬師霊場」、さらに、他人を苦しめないようにという「尼寺三十四霊場」をめぐり、その合間に「関西花の寺二十五ケ所」を訪れて季節ごとに咲くアジサイ、ハナショウブ、カキツバタなどを愛でるのでした。 ただし、弘法大師ゆかりの寺を訪ねる「四国八十八ケ所霊場」めぐりだけは晩年の楽しみにとっておきました。 仁子の巡礼はすべて日帰りでした。車や飛行機で出かけますが、帰る頃になるといつもそわそわし始めます。家のことと、百福の帰りを気にしているのです。
【関連記事】
- 『まんぷく』おなかに新しい命が宿るも夫・百福は二年の収監…幸せな毎日が崩れる中、福子のモデル・安藤仁子を支えた「母の言葉」とは
- 『まんぷく』ヤミ市で見かけたラーメンの屋台には笑顔に包まれた人たちが…日清食品創業に影響を与えた安藤百福<心の原風景>
- 『まんぷく』萬平のモデル・百福が結婚時にして生涯守り通した「三つの約束」とは…戦争で事業は灰になるも<ひらめき>は止まらず
- 次々と事業を立ち上げる『まんぷく』萬平のモデル・百福が陥った絶体絶命のピンチとは…百福とその妻が不思議な出会いを果たすまで
- 『まんぷく』福子のモデル・安藤仁子は百福からアプローチを受けるも、なぜか一旦断り…第一次大阪大空襲のたった八日後、戦火の合間を縫うように結婚式を挙げて