二年の収監後に放免された『まんぷく』萬平のモデル・百福。信用組合理事長になって平穏な暮らしが続くと思いきや、妻の心にまさかの変化が…
◆「主人の健康は、私が支える」 百福は若い頃から早寝早起きで、仕事が終わるとさっさと帰宅しました。高級料亭の宴会や、酒席のお付き合いがあまり好きではありませんでした。その代わり、家では夕食、朝食はフルコースといっていいほどしっかりと食べました。仁子はその準備にいつも頭を悩ませていたのです。 「主人の健康は、私が支える」という責任感が強く、帰宅した百福が、今日はこれが食べたいというと、今まで準備したものをすべて作り変えました。 百福はいつも世界の中心にいる人でした。何か始めると、周りの人はいつの間にかその渦に呑みこまれました。仁子は決してグチは言いませんでしたが、我慢にも限界がありました。 気持ちがどうしても収まらない時は、周りにいる人に、「ちょっと手を出してちょうだい」と言い、出てきた手の平を「くそっ」と言ってつねるふりをし、溜飲を下げたそうです。これをいつしか人は「仁子のくそ教」と呼ぶようになりました。幼少時から、どんなにつらいことがあっても「なにくそ」と乗り越えてきた仁子ですが、晩年の対象は、いつも百福だったのです。
◆不安が現実に さて、「名前だけで結構ですから」と頼まれて引き受けた仕事ですが、百福はただ、じっと座っている仕事は性に合いません。営業担当者と一緒に心斎橋周辺をぐるっと挨拶に回ると、相当な預金が集まりました。「私の信用度もまんざらではないな」と内心うれしくなりました。 百福自身も口座を作り、トラの子のお金をすべて預金しました。 最初の数年間は順調に進みました。やがて雲行きが怪しくなりました。組合員への融資がルーズだったため、あちこちで不良債権が発生していたのです。こんな時に限って、うまい話が持ち込まれます。不振を一挙に取り戻せそうな投機的な話です。経営を再建したいという思いでこの話に乗りました。やはり、失敗でした。 百福は自分の預金を引き出して債権の処理にあてようとしました。しかしすでに信用組合の資産は凍結されていて、自分の預金口座といえども勝手に引き出せない状況になっていたのです。倒産です。百福は理事長として責任を問われました。またしても、財産を失うことになったのです。 国税局の役人が池田市呉服町の家に差し押さえにやってきました。彼らが、玄関先から上がり込んでくる前に、須磨は現金や証書類を腹巻の中に隠しました。残りはまとめて仁子に渡します。仁子はそれをハンドバッグに押し込むと、離れの間にほうり込みました。 別の部屋では、スキー場から帰ってきたばかりの冨巨代(仁子の姪)が疲れて寝ていました。その布団の中にも書類を隠しました。税務署員も、さすがに若い女の子の布団までははがせませんでした。またとっさに、小学校一年生だった明美のランドセルの中にも書類を押し込みました。明美はそのまま気が付かずに学校に行き、何も知らないままに帰宅しました。 役人は裸電球のともった納戸の中に入って財産になりそうなものを探していました。小学校三年生の宏基がタンスに貼られた赤紙をはがそうとしましたが、「これはもう私たちのものではないのよ」と須磨に止められました。 税務署の査察は三回ありました。百福はいつも不在で、翌朝になると、食堂で何事もなかったように、知らん顔をして座っていたそうです。 仁子の漠然とした不安が現実のものとなってしまったのです。 ※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。
筒井之隆
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