アメリカの軍部の要望を実現するために「戦後日本」に残された「リモコン装置」…ぜったいに「米軍」にさからえない「日本の悲劇」
日本という「半分主権国家」
このように当のアメリカの外交官にさえ、「占領中にできあがった異常な関係」といわれてしまう、この米軍と日本のエリート官僚の協議機関、日米合同委員会とは、いったいなぜ生まれたのでしょう。 詳しくは本書の後半でお話ししますが、歴史をさかのぼれば、もともと占領が終わる2年前、1950年初頭の段階で、アメリカの軍部は日本を独立させることに絶対反対の立場をとっていました。すでにソ連や中国とのあいだで冷戦が始まりつつあったからです。 しかし、それでもアメリカ政府がどうしても日本を独立させるというなら、それは、 「在日米軍の法的地位は変えない半分平和条約を結ぶ」(陸軍次官ヴォーヒーズ) あるいは、 「政治と経済については、日本とのあいだに「正常化協定」を結ぶが、軍事面では占領体制をそのまま継続する」(軍部を説得するためのバターワース極東担当国務次官補の案) というかたちでなければならない、と考えていたのです(「アメリカ外交文書(FRUS)」1950年1月18日)。 この上のふたつの米軍の基本方針を、もう一度じっくりと読んでみてください。 私は7年前から、沖縄と本土でいくつもの米軍基地の取材をしてきましたが、調べれば調べるほど、いまの日本の現実をあらわす言葉として、これほど的確な表現はないと思います。 つまり「戦後日本」という国は、 「在日米軍の法的地位は変えず」 「軍事面での占領体制がそのまま継続した」 「半分主権国家」 として国際社会に復帰したということです。 その「本当の姿」を日本国民に隠しながら、しかもその体制を長く続けていくための政治的装置が、1952年に発足した日米合同委員会なのです。 ですからそこで合意された内容は、国会の承認も必要としないし、公開する必要もない。ときには憲法の規定を超えることもある。その点について日米間の合意が存在することは、すでにアメリカ側の公文書(→『知ってはいけない』72ページ「安保法体系の構造」の日米合同委員会の項を参照)によって明らかにされているのです。